染野太朗


今週会った人たちはみんないい人で土曜の夜は紅茶を飲んだ

永井祐「隣り駅のヤマダ電機」(「たべるのがおそい」vol.3、2017年)

 


 

一昨日の続きです。

 

……そのように説明してみるとき、永井の歌は、対象をそのまま描き取ることに長けている、余計な装飾を施さずに気負わずに世界を捉えている、フラットである、という性質のものではないことがわかる。僕は一昨日「世界に対してひらかれている」と言ったが、実はそうではなく、「世界と対峙したときの自分自身の感覚に対してひらかれている」というのがもっとも適当な言い方になるのだと思う。そのとき歌が表現するものは、モノゴトそのものではない。モノゴトが主体を通過したときに主体に湧き上がったもの、つまり、「感覚」や「体感」と呼ばれるものこそが表現の要になる。即物的であるような見た目ではあるけれど、本質はモノゴトにはなく、あくまでも感覚、体感の側にあるということ。即物的であるように見えるのは、体感が世界に対してひらかれているから。モノにそのまま真向かっているから。しかし主観を手放しているわけではなく、客観的であろうとしているのではなく、むしろ主観に忠実に、そこに引っかかってきたものが慎重な手つきで言葉に変換されている、という印象をもつ。

 

カーディガンを毛布のように使ったりして映画館の椅子の上にいた
WikipediaのURLをときどき わたしはコピーして貼りつける
シャツにワインをこぼした夏のずっとあと シャツにワインをこぼしたくなる
「ヤギ ばか」で検索すると崖にいるヤギの画像がたくさん出てくる
段落の途中でやめる 寒い日に電池を買ってあたたかくなる

/「隣り駅のヤマダ電機」

 

毛布のように使ったカーディガン、シャツにワインをこぼしたこととそのシャツ、崖にいるヤギの画像、段落の途中で書くのを(あるいは読むのを)やめたこと。二首目はきっと、それをする「わたし」そのもの。それらが「核」として僕には見えてくる。主体が、直感のようにして、なんらかの理由で釣り上げてしまったもの。その「核」が主体に何をもたらしたのか、その体感の再現のために、その他の措辞や構文がある。主体はよく見ているし、感じている。しかしそこに意識的な何かが感じられない。ひらかれている。周囲に対する過剰な解釈、詩化の意識が見当たらない。それは、意識や思考でなく、感覚のほうが優位に働いていることの表れだと思う。そうしたとき、歌のフォルムは即物的に、フラットに見えてしまう。しかし肝心なのはその「物」ではない。永井の歌におけるフラットさはむしろ、モノではなく、感覚・体感を生かすものとしてある。だから、大いに主観的で、世界とあるがままにかかわろうとする「意欲」に満ちた歌であるように僕には感じられる。(下手なことは言えないのだけれども、これは、旧来の写生・写実とカテゴライズされる歌ともすこし違うものだと思う。あれらには客観の手つきがあった。モノが主体であるという手つきが見えた。それは強固な要塞のようだった。読者はその扉をこじ開けなければならなかった。そこにある眼差しや主観は読者のほうから積極的に読み取るべきものとしてあった。永井の歌はそれとは違う。その両者の違いには、さらに「口語/文語」とその二項対立の解体の話や、現代の(短歌以外も含めた)言語状況などもかかわるように思うし、ここでは触れない。)

 

今日の一首。この「紅茶」の存在感である。みんないい人であること、その人たち、そして土曜の夜であること、のすべてが「紅茶」として目の前のカップ(なのかペットボトルなのか)に注がれている。そこに凝縮される。おどろくほどあたたかみのある、濃い紅茶だ。けれどももし、人の「あたたかみ」や土曜の夜の「解放感」に焦点を当ててしまったら、そのように取捨選択してしまったら、きっとこの紅茶はただの紅茶になる。たちまちモノでしかなくなる。その時点で紅茶は、主体から切り離され、読者の過剰な解釈を待つことになるだろう。しかしここで選ばれたのは、「あたたかみ」や「解放感」ではなく「紅茶」なのである。その取捨選択は、意識でなく感覚・体感が成したものであるはず。結果的に、紅茶そのものではなく、この紅茶が主体にもたらしたものこそが、この歌の眼目になる。主体の体感がそこにある。読者として同じ紅茶を飲んだような気になる。主体の体感に、読者としての僕の体感が、無理なく同期するような感じがある。とてもふしぎな歌だと思う。歌が読者にひらかれている。