樹木から樹木に移り肺のごと息づきてをり冬の時計は

前登志夫『子午線の繭』(白玉書房:1964年)
※引用は『非在』(短歌新聞社:1976年)より


 

鳥の歌だと決めつけるところからはじめてみよう。蝶でもいいし、リスなどの小動物でもいいような気もするけれど、とりあえず暫定的に、鳥だと。冬の樹木が出てくる。それはおそらくは裸木であるゆえに鳥の姿もよくみえるし、裸木はのちに「肺」を露出する身体のイメージのちょっと寒々しい感じとも響きあってくる。肺に対する骨格や血管の枝分かれのシルエットもどこか重なってくる。肺に見立てられているのが樹木のなかをとびまわる鳥である。たとえば雀をみて「肺のようだ」と思ったことがない人は、この歌を経験して、今後はそう思うようになるかもしれない。小さな動物の呼吸がダイレクトに皮膚に響くあの感じを言い当てている比喩である。
問題は〈冬の時計は〉である。文字通りに時計が飛び回っているという、ダリの絵や『不思議の国のアリス』などに出てきそうな光景を思い浮かべるのもいいけれど、これは鳥の歌だという決めつけはまだ引っぱることができる。〈肺のごと〉が鳥の外見や質感を描写するための直喩なら、〈冬の時計は〉は鳥の性格や象徴性をうつしだす暗喩の役割を担う。たとえば朝になると鳴きはじめることで人に朝のおとずれを知らせる性質が時計のようだし、あるいは人に比べて寿命が短いことから、持ち時間を可視化しながら生きているように作者にはみえたということなのかもしれない。
あたたかく息づいていた生き物が次の瞬間に固くつめたい機械として取り出される。その落差が冬のつめたさとあいまって伝えてくるのはやはり死の気配だけど、この歌の場合、生き物がいつか死ぬという運命そのものではなく、そのつめたさを裏側に置くことでいま起きている生のほうを奇妙なかたちで強調しているようにも思う。肺と時計のあいだに連続性があるとしたら、それは小刻みに音を刻む性質だ。鳴っているかぎり生きているのだ。
鳥の歌だというのは暫定的な仮定でも、これだけ状況証拠を集めれば信憑性は高まってくる。けれど、それでも鳥ははっきりとは姿をあらわさない。直喩と暗喩のずれのなかに鳥を隠している歌なのである。それによって、鳥が鳥と名付けられる前の概念に迫っているようでもある。

 

この歌に特徴的なのは、作者の筆圧がつよい部分と歌の太くみえる部分が一致しないことである。この歌で力が入っているのは〈肺のごと息づきてをり〉の部分であり、その先の結句〈冬の時計は〉ではすでに山場を越えている。歌の呼吸としても、結句には〈肺のごと〉で盛りあがった余韻をしずめていくようなやわらかさがある。にもかかわらず、異常事態は結句で起きているようにみえる。四句目と結句のあいだにひそかな断絶があるからだ。鳥(かもしれないしそうじゃないかもしれない、喩えらえている何者か)の頭上を飛び越えるほどの。ここにつくられている断層のずれは、ずれの周辺にとどまらず歌全体を振動させる。

 

夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ/前登志夫
向う岸に菜を洗ひゐし人去りて妊婦と気づく百年の後

 

これらの歌にも同じことがいえる。表現としての意気込みがつよい部分は〈盗賊のごとく〉〈妊婦と気づく〉であるにもかかわらず、読者が驚くのはそれぞれ結句なのではないか。大技は途中で入れて、結句ですべらせる。それが歌のまとう空気をぐにゃりとゆがませて、異空間を出現させる。この方法で前登志夫の作品のすべてを読み解くことはできないものの、こうしていくつかの代表歌の構造を説明することはできる上に、歌人のわたしたちが今日からちょっと試してみたくなるテクニックであるようにも思う。