ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを

柳谷あゆみ
『ダマスカスへ行く 前・後・途中』
(六花書林、2012)

日々のクオリアにとりあげようと思い、歌集終盤に登場したこの歌にふせんをつけた。ところが、その隣にも、そのまた隣にも、同じ歌が載っている。一一九ページの三首がすべて同じ歌だった。

ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを
ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを

プラスチック(の製品)は、日光にでも当たらないかぎり、何年も何十年もあきれるくらいずっと同じ姿のままで置かれた場所にい続ける。えんえんと時間を透過させる物質が抱いているかもしれないさみしさや失望、もしくは泰然とした気分——、これを人間が本当に理解するには、やはり同じくらい「ゆっくりと」でなければならない。そして、自分もいつかそうやって「そのままでいるプラスティック」を“理解”してしまう日が来る。そんなふとした確信が、この歌には詠まれているらしい。

中国製薬缶より低く笛響く今なら帰ってよい気がしている
年々に地図のようなるわが皮膚に層なしていく地続きのこころ
わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか

「二〇〇五年に仕事を終わりにして帰国し、半年後またダマスカスに入った。/びっくりするほど変わっていなかった」—— 歌集題に「前・後・途中」という副題のあるとおり、作者のダマスカス滞在経験が核となり、その前後の日本での日々をも噛み混ぜた歌集である。しかし、現地での経験や見聞を濃密にうたうよりも、自分自身の変化の予感を鋭く察知し、踏み出すことのできる瞬間を見極めようとする。ここではないどこかへ行くとは、あるいは帰るとは、どういうことか、歌集の主人公はくりかえし自分自身に問うている。

そうした思索の先で、なぜだか突如プラスチックが詠まれることになる。同じ歌を繰り返したのは、変化しないということをほとんど実力行使で示したものだろう。ある土地に根を下ろしたまま、累々と世代をつないでいく人々の存在が、このような歌を詠ませるのかもしれない。しかし、そんな存在にプラスチックというあまりに卑近な物質を重ねるのは、同じ場所にい続けるという重みを今はまだ「ゆっくりとわかる」ことができないでいる、そんな不安ゆえのようにも思う。

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