おきまりのなんとかなるよがききたくて豆が煮えるまでのペシミスト

北川草子『シチュー鍋の天使』
(沖積舎、2001)

豆が煮えるまで、とは何分間くらいのものだろう。豆とはなんの豆で、どういう料理をしているのだろうか。そもそも掲出歌のこの部分は、コーヒーが入るまで、でも、トーストが焼けるまで、でも、ご飯が炊けるまで、でもいいような気がする。それらのほうが時間のスケールが読む側としては察しがつきやすい。しかし、どうであろう、私の感覚では、コーヒー、トースト、ご飯の方が、つきあいたて、もしくは同棲したてのカップルという感じがする。「豆が煮えるまで」というやや込み入った(?)具体は、すでに多くの生活の時間をともにしてきたふたりに似つかわしい。ここには「豆」と言っただけでなんのことかすぐにわかりあえる関係性がすでにあり、よそ者は容易にその中に割り込むことができない。

ペシミストは悲観論者の意味。主人公はなにやら悩みごとを恋人に話しているのだが、それは悩みを解決したいのではなく、「なんとかなるよ」といつものように言ってほしかったから。悩みを聞きながらも豆が煮えるまでの適当なタイミングで「なんとかなるよ」を言い、おさめようとする恋人は、おそらくはその話もまじめには聞いていないのだろうと思えるのだが、主人公の方もそんなことは初めからわかっていて、とにかくいつもどおりの「なんとかなるよ」が聞きたい。これはふたりの関係性の継続を確認しようという行為であろうと思う。主人公は、そんなみずからの心理と言動を客観的にとらえ、「豆が煮えるまでのペシミスト」と定義する。別の歌に言う、

カステラとハチミツ つまりしあわせの組み合わせは無限だってこと

「カステラとハチミツ」は恋人どうしのふたりを暗示している。まるで甘すぎるようであるが、ハチミツ入りのカステラというのは現に売られているし、おいしい。このふたりの、いっけんいびつな、しかし極めて安定した関係性は、恋の始まりのちょっとしたことで悩みを募らせるデリケートな時代をすでに通り過ぎている。「豆が煮えるまでのペシミスト」とは、恋人との安定した関係に身をゆだねようとする、悲観とは対極の、充足した心理なのである。

置きかけた受話器を前にまた今度会おうねなんて悪意ない嘘
雨上がりの夜空を見上げるチェーホフのヒロインたちよりすこうし不幸に
傷ひかるテフロン加工のフライパン きのうわたしは嘘つきました

今日の掲出歌の「ペシミスト」と同様に、ここに引いた三首にもネガティブな語彙がつかわれているが、このような歌も一筋縄ではいかない。「悪意ない嘘」「すこうし不幸に」とネガティブの度合いを微調整する手つき。前回とりあげた嵯峨直樹の作例にも共通するが、恋愛(北川のこの三首の場合恋愛に限定する必要も必ずしもないが)の渦中にある自分自身を客観視し、作品化して読者に見せようとする感覚があるのではないか。主人公のこの強さはまさに「テフロン加工のフライパン」であり、そこに輝く傷を歌に詠みつづける。「テフロン加工」とは、恋を含め満ち足りた生活により育まれた自尊心だろう。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です