『庭』河野裕子
今夜のうちに手紙を書いてしまおう、母がまだ私の字を読めて返事をくれるから、という歌である。言葉通りでなんの説明もいらない。だが、この手紙=文字でつながっている母娘の在り方がめずらしく、印象深く記憶している歌だ。この歌の母は、この頃しだいに認知症が進みはじめていたらしい。だから母への手紙は明日にせず「夜のうちに書いて了う」と思ったのだろう。そうした思いを端的に、切羽詰まったように言い切った一、二句の言葉の魅力が大きい。息子である永田淳によると、河野裕子はマザコンと言ってもいいほど母親への依存度が高かったという(『河野裕子』)。母の存在はそのまま自分自身のいのちとつながっているものであったようだ。むろん「私の字」という限定も大事で、母は「私の字」であるからいつまでも読めるのである。いのちの時間と文字のかかわりを考えさせる歌である。二〇〇四年刊行の第十二歌集。
