神様を見ようと父と待ちあわせ二人で風に吹かれてすごす

服部真里子『行け広野へと』
(本阿弥書店、2014)

『行け広野へと』を読んでいると、王とか、王権に通ずるモチーフがとてもユニークに感じられる。

金印を誰かにしてやりたくてずっと砂地を行く秋のこと
野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
キング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして
青桐の一葉ごとに国があり君は淋しい王様であれ

ここに引くうち、たいへん有名になった「戦って勝つために生まれた」の歌は、いっけん王や王権とは縁遠いようでもあるが、「君は淋しい王様であれ」という四首目とどこか響きあう味わいがある。あの青桐の葉のごとく大きな国土(しかし結局は一枚の葉にすぎない)の、その権力の頂点に立つ者として、つまり生まれながらの勝者として生きる「王様」の孤独。それを二首目の主体も抱えこもうとしているのではないか。こういった特定の歌の破格の力強さが一冊の歌集の印象を支配しているようにも思える。

三首目のキング・オブ・キングスは、(黒瀬珂瀾さんの栞文に教えられたところであるが)作者の意図としてはおそらく「王」というよりもキリストを指している。歌集にはほかに、旧約聖書に登場するソロモン王の名を詠みこんだ一首もある。日々のクオリアでも私が幾度かとりあげてきたとおり、現代短歌において〈神〉の存在が示唆されるとき、それは〈主人公の運命を支配する姿の見えない何者か〉という程度の意味合いのことが多いのだが、『行け広野へと』では、神の存在を王や王権に橋渡しさせることで、人界に降り立たせる手つきがある。ここに引いた三首目を観察すると、(神)→キリスト→キング→金の砂、といったふうに神の存在を生身の人間が手にすることのできるコモディティにまで具体化してみせている。その結果として語り手が金印という古代の王権の遺物を手にしたとき(一首目)、「誰かに捺してやりたい」と矛先を探す。その金印がほんらい捺されるべきは、歌集に頻繁に登場する〈父〉だったのではないかと、私には思える。それなのに「誰か」を探すのは、父には捺せないからだろう。

駅前に立っている父 大きめの水玉のような気持ちでそば
父眠りし後もしばらく続きおり『鬼平犯科帳』の剣戟

『行け広野へと』をひもとくと、はじめはキリスト教、聖書、王、王権といったきらびやかなモチーフに目を奪われるが、それ以上に頻出する父をとりまく穏やかな、しかしどこか夢見心地の生活が次第に見えるようになる。バイメタルコインのごとく一冊の中にふたつの世界を繋ぎ合わせた意義。それはひとつには歌集の中に王権を具体化させ、はっきりと置くことで、モチーフとしての〈父〉を父権から解放したことのように思う。掲出歌の「父」は、「神様を見ようと」と、ここまで引いてきた神や王権のモチーフとくらべれば拍子抜けするほど解像度の低いまなざしで、主人公とぼんやり空を見上げている。こんな時間がいつまでもいつまでも続いていきそうなやさしいうたいぶりだ。

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