よもぎ餅さびしけれども食むほかに牡丹に対きてなすこともなし

 『晩花』馬場あき子

 「古京晩花」の一連のなかの一首である。牡丹は奈良県の石光寺(せっこうじ)に見た花であったという。歌の中の「牡丹」と「よもぎ餅」について、馬場はエッセイ『古典余情』にこう記している。「ここでよもぎ餅をいただいたことがあった。折ふしの草の香がなつかしく、美しい牡丹と対き合って食べることが少しためらわれたが、牡丹はいっそうほほえんでいるようであった」。
「よもぎ餅」を食べることが、なぜ「さびし」さにつながるのか。美しい牡丹を前にして、人間の食べるという行為への恥じらいか、などというあざとい読み方は不要であろう。この歌のさびしさには、「折ふしの草の香がなつかしく」という言葉が語るように、季節、季節の移り変わりへの遥かな思いが潜んでいる。しかしまた、〈折しも〉眼前には牡丹が咲き充ちており、その美しさを前にしてはただ「食むほかに」なかったということであろう。この〈折ふし〉と〈折しも〉の対比、言いかえれば、移ろう季節のあわれと一瞬の美との対比を、「よもぎ餅」と「牡丹」で鮮やかに見せているのである。一九八五年刊行の第八歌集。

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