暗いだけの淵をめぐりて合歓満ちるあなたは合歓を知らぬだろうが

永田紅『日輪』
(砂子屋書房、2000)

永田紅といえば

人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

がたいへん有名なのだが、『日輪』を開いてみると、それが冒頭の第一首目にある。地上に立つ主体が見上げた、ユリカモメの舞う灰色の空が読者の脳裏にもはっきりと浮かぶ。主体がある時間ずっと曇天を見上げながら「まるき」という不思議な形容をつぶやくとき、主体の身体がユリカモメのごとくふっと浮かび上がる、そんな感覚がないだろうか。浮かび上がったとして、その先になにがあるのか。「馴れぬ齢」を抱えながら生きていく、その人自身の残りの生ということになろうか。

雨の降る葬りの帰りバスの窓をニセアカシアの花擦りゆけり
しっかりと目を見て話せプラタナス木の半分が陽に透けている
サルスベリ退路を断ってすすむしかないと思いし日にあはあはと

『日輪』という一冊は、しかし鳥よりも樹木の歌集だと私は思う。ユリカモメが主体のはるか頭上を飛びながら、人生の行き先へと主体をゆっくりひっぱり上げるのに対し、一冊の中におびただしくうたわれる花木は、主体の立つのと同じ地面に常に立ち、主体に寄り添い、ともすれば一体化するような印象がある。

先に引いた三首のうち、たとえばプラタナスの歌の、「しっかりと目を見て話せ」は主体が誰かに言ったのではなく、誰かに言われたのだろう(なぜ、というと、現代短歌の主人公は、そんなつまらない忠告を人に言ったりしないから、としか答えようがない)。しっかり目を見て話せ、それは生き方の真剣さを問われているわけでもあり、だからこそ主人公はそのずけずけと野蛮なアドバイスを頭の中で幾度も反芻してしまう。そこに突如登場する、半分が陽に透けたプラタナスは、まるで主体の化身のようでもあり、まだ半分の真剣さでしか歩き出していない人生という道の先に、陽だまりのようにあたたかな未来があることを示してもいる。ユリカモメと同じく未来を指し示すのであっても、樹木は常に主人公に寄り添うのである。

さて掲出歌は、「ユリカモメ飛ぶまるき曇天」と同じ一連「火は眠かりき」にある一首。深く暗いよどみのように思える日々にとどまりながら、心の中にだんだんと合歓ねむの花があふれだしてくるように思えた、そういうことをうたっているのだろう。同時に、あなたはネムノキなんて知らないでしょうが、と相手を軽くなじっているような気配がある。この「合歓」が示すものは結局のところ、暗い毎日に小さな灯をともすような、「あなた」への愛ということになりはしないか。人生というくらい淵にただよううち、わたしの心にあふれてきた愛を、あなたはまだ知らないだろう——。この感情は、歌集中のふたつ後の連作において、

感情は枯れてゆくから 明日君にシマトネリコの木をおしえよう

という心境の変化にいたる。「暗い淵」をうたう掲出歌よりも明るくカラリとした歌だ。トネリコは、東京では最近、新築マンションの植栽に使われているのをよく見るようになったちいさな葉の重なりが目に愉しい樹。ピンクのふわふわと膨らむ花をいっぱいにつけるネムノキに喩えられていた感情が、「おしえよう」という場面ではシマトネリコというよそゆきの、シックな樹にすり替えられているのがなんともほほえましい。ネムノキとしての感情があったことは読者にしかあかされないのだ。

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