花火した話を人にしているとときどき誰とと聞く人がいる

永井祐「12首もある」(「歌壇」2018年12月号)

 


 

永井祐の歌を評するときは慎重にならなければならないな、と思う。フラット、平板、見たものを見たままに、感情が薄い、解像度が低い、都市、現代の若者、……その他、あらゆるキーワードによって評が試みられてきたけれど、そしてそれらが誤っているとも思わないのだけれど、永井の歌の本質や特殊性がついにはわからない、言語化しにくいがゆえに(いや、わかっている人もいるとは思いますが)、それに対する評語にも言った者勝ちみたいなところがあって、誰かが言った永井に対する評語で妥当そうなものを永井の新作にコピペして読めばなんとなく読めた気がする、というのをくりかえしているような感じがある。というか少なくとも僕には、ある時期までそういう態度があったと思う。でもたぶん、永井の歌の性質そのものは、実はそういう地点からもっとも遠いところにある(というふうに語り始めること自体が永井の歌から遠ざかる理由なのだが)。そういう地点、というのは、「永井の歌は○○だ」という一般化、ということ。一般化されないところこそが、永井の歌の核心、眼目、要としていつまでも歌のなかに生きていくのだと思う。

 

けれど今回は「永井の歌は○○だ」というふうに大きくやってみます。

 

カップルがメニューボードのまえにいてほんのりと明るい道だった
花火した話を人にしているとときどき誰とと聞く人がいる
夏の粒子がお店のなかに浮いていてきみは接続詞もてきとうで
セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい

/「12首もある」(「歌壇」2018年12月号)

 

今日の一首を含むこの四首について。世界に対してたいへんにひらかれていると思う。見たものやあったことがそのまま描かれている、と言えばそのようにも見えるのだけれども、実は取捨選択がかなり利いている。メニューボードの前にいるカップル。「誰と」と聞く人。文脈上は不自然な接続詞とそれを話す「きみ」。カッター付きのセロテープ。こういったモノゴトや人が印象的に歌の核を占めている。そのときどきに、心身に引っかかったものが(ものだけが)しっかりとその質感を保って言葉に移し替えられている、という印象がある。しかしそれは、詩にするため、世界の真理を言い当てるため、普遍的ななにかを抽出するため、の意識的な取捨選択ではない。世界に対して過剰に構えることなく、みずからの感受性をそのまま世界に沿わせていったときに釣り上げられるもの、釣り上げてしまったもの。そして、僕が上に示した「核」となるようなものを包み込むように、「ほんのりと明るい」や、「花火」「ときどき」や、「夏の粒子」「浮いて」や、「やつ」「生きてること」「盛り上がりたい」といったような状況や、語句そのものがもつ語感・ニュアンス(語句の、一首における意味そのものとは必ずしも一致しないもの)がある。さらに、一首目「~いて~だった」というさりげない順接のあしらいや、二首目「いるとときどき誰とと」の、ちょっとノイズになるような、笑ってしまうような「と」の連続、三首目「~いて~で」の言い差しの浮遊感、四首目の上の句と下の句をぶつける構造(ここでは、上の句によって得られた若干の高揚が、一般化された思いになだらかに接続している)あたりの、その構文のありようも低く響いて、歌にニュアンスを付け加えている。

 

……説明のためにちょっと極端な言い方、分解した言い方、作意のあるような言い方をしてしまっているのだが、つまり、歌の主体がそのときどきに感じ取った(というか、直感のように感じ取ってしまった、主体の目に飛びこんできた、主体にとってなんだか気になった)その対象としての「核」がひとつまずあって、それを取り巻くものや気になった理由としての状況や明暗や思い・思考が、その核を感じ取ったときの質感の再現のために慎重に取捨されていて、さらにその上でそれを補足するように(あるいはそれとは別に遊び心やメロディーやリズムを表現するために)適切な構文が選び取られている、という感じがある。

 

以下、長くなるので、続きはまた明後日ということにします。