ローソンのバックヤードでくちづけをおぼえる子供たちによろしく

魚村晋太郎「梯子」(角川「短歌」二〇一八年三月号)


 

コンビニで育った子どもたちは人生のすべてをコンビニで学ぶ。コンビニの食べ物を食べ、コンビニの雑誌を読み、コンビニのバックヤードでくちづけをおぼえ、コンビニで育った子ども同士で繁殖し、次世代のコンビニの子どもたちを作り、……いずれコンビニで売られる量産型の商品と見分けがつかなくなる。
実際にはそこまでのことは言っていない一首から、そんな殺伐とした近未来の世界観を読みたくなるのは、〈ローソンのバックヤードでくちづけをおぼえる〉のがそれほど特異なことだとは思えないからだ。コンビニというモチーフは社会詠としての性格が宿りやすく、掲出歌もあと少しのさじ加減で山田航の〈たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく〉や松木秀の〈LAWSONへSEIYUそして武富士へだんだん青くなり死ぬだろう〉に連なる歌になっていたのではないかと思うし、そうなっていればある特定の世代の生活を象徴的に背負っていたかもしれない。しかし、〈ローソンのバックヤードでくちづけをおぼえ〉るのは特定の世代の特権ではなく、おそらく数十年前からいただろう。数十年後までもいるだろう。この〈子供たち〉は次々に生まれ、更新される、という予感が掲出歌のバックヤードで一首のコンビニ的なイメージを支えるのだと思う。

 

数十年変わらないものは短歌にとってはほとんど花鳥風月のようなものだ。社会詠的なモチーフを花鳥風月的に発見したのがこの歌のおもしろさだともいえるし、その普遍性を考えると、掲出歌に特異なのはむしろ〈よろしく〉という挨拶の遠さである。普遍的な部分と新鮮な手触りのある部分、それがちぐはぐに混在するこの不思議な感じは、魚村の文体に通じるところでもあるだろう。
この一首からは(たまたま)わからないことだけれど、魚村晋太郎は口語、旧仮名遣いというややレアな組み合わせの文体を選択している歌人である。この組み合わせは、作者の生理的なバックボーンには口語があり、旧仮名遣いは装飾として用いられているようにみえる場合が多いけれど、魚村の場合はその逆で、旧仮名遣いというフォルムが先行していて、語尾を選択的に現代版にアップデートしているという印象。岡井隆がときどき遊びのように導入する部分的な口語を拡張し、そこに全身を投じたらこうなるであろうというバージョンのようでもある。
その性質が、掲出歌の未来を予感するような、同時に懐かしいような、両義的な雰囲気をつくっているのだと思う。読み終えてしまえばなんということもなく、なるべくしてこういう形になったという結果論に書き換えられてしまうような歌だけど、読んでいる途中ではぱたぱたとなんども予想外の方向に裏返り、読み終えるまで落ち着きどころを悟らせない。文節ごとに「アップデートしますか?」という問いを挟んでいるような緊張感が、真綿で首をしめる系の文体を形成する。