寒くなるほどさびしくなっていきやがるカレンダー薄っぺらな心め

虫武一俊『羽虫群』(書肆侃侃房、2016年)

 


 

「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない

 

ふつう人は勝ちたいものだ、という前提が読者にあるとき(もしかしたらなくても)、まず「負けたさ」という語の不自然さに目がいくと思う。「勝ちたさ」という語は不自然ではない。けれども「ふつうは負けたくない」はずだから、「負けたさ」は、その日本語が文法上誤りでなかったとしても、一日本語として異様に映る。この語の一般的な使用頻度や意味上の違和感が、この語そのものを日本語として異質なものにする。へんなのは意味だけであるはずなのに日本語としてもなんだかへん、というふうに思う(……たぶん)。

 

それが一首に配されれば、どうしてもそこに目がいく。「負けたさ」ってどういう意味だろう、とまず考える。それを考えることで実際、この歌の核の部分に届く気がしてくる。なぜ「負けたい」と思うのか、など、「負けたさ」というものを心情として抱いている主体を、この時代の傾向やらなにやらとからめながら語ることもおそらくできる。そしてそれによって導かれる抽象は、この歌の強度になりうるし、それをこそ読むべきとも思う。

 

ただ、この歌にはたぶん別の見方も可能で、それは「負けたさをうまく言えない」の契機となっているのが「「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて」であるという点を探ると見えてくるように思う。この「~ばかりいて」という順接には曖昧なところがあって、その機能・ニュアンスを確定させにくいのだけれども、これを「~ばかりいるから」と読むとき、「負けたさ」をうまく言えないその理由は、「負けたさ」の内容が曖昧模糊としているから、あるいは、「負けたくはない」という前提をもって生きる人たちにそれを理屈で説明したり共感してもらったりすることは難しいから、というより、「負けたさ」とは何か、その内容ははっきりと自覚しているしその気になれば共感してもらえる、あるいは理屈で説明することも可能だけれど、そういうひと「ばかり」いるから、つまり自分が圧倒的に少数派だから、なんとなく物怖じしてしまって、気後れしてしまって言えない、というふうに読むことも可能であるように思う。要は「負けたさ」の内容でなくて、周囲にいる人の数の問題。そうなると、「負けたさ」や、それを時代とかかわらせる読み方は、一首の本意からやや外れることになる。「ばかりいる」という状況でのやりにくさこそがこの歌の中心になる。もちろんそれらはまったく別々のものではないけれど。

 

なぜこういう読みをしてみたかと言うと、ひと「ばかり」、というふうに、周囲の人やその考え方に意識の向かう感じが、「負けたさ」という語の不自然さによく馴染む気がしたから。この「負けたさ」には、どこか〈作者〉の手つきを感じるのである。つまり「負けたさ」という語が「勝ちたさ」という語との対比によって、一首における「違和感」という輝きや読解上の旨味を得るのであれば、ここには「負けたさ」という語の効果に対する〈作者〉としての俯瞰の存在を強く意識できるのではないかということ。要は作意の話。そして、作意というものが読者への意識をテコにして現れるものならば、「〈作者〉から読者への眼差し」のありようが、ひと「ばかり」というところを意識している「〈主体〉から周囲の人への眼差し」とぴったり重なるような気がして、つまりこの一首、いくつかのレベルで「周囲」にばかり目が行っている歌なのではないかと思ったのだ。……〈作者〉の手つき、方法まで読みの内部に反映させるかのような読み方には慎重になるべきだと思うのだけれども、とにかくその〈作者〉と〈主体〉の相似を起点にして「周囲」志向ということに僕が思い至ったのは確かなので、ちょっとここに記しておく。

 

さて今日の一首。語の構成がやたらとテクニカルだと思う。「寒くなるほどさびしくなっていく」と言うのだからまずは「心」の話だと思いたくなる。けれどもその「さびしくなる」は「薄くなる」を歌の背後に導いていて、それをテコにしてまず「カレンダー」が歌に引っ張り出される。その上で「カレンダー」の物理的な薄さは、軽薄だったり深みがなかったりという意味での「薄い」に変換され「心」を導く。……いま、順番をつけて初句からあえて説明したけれども、実際にはそれがいっぺんに一首の上で起きている。「薄っぺらな」は同時に「カレンダー」と「心」に係り、また、初句から「薄っぺらな」までが「心」を導く序詞のようにも見える。その上で「やがる」と「め」のニュアンスが、自分の意志ではどうにもコントロールの利かない状況と、寒さや「薄っぺらな心」によってさびしさを感じてしまう自分(もしかしたらほかの誰か)への不如意、悔しさ、情けなさを歌の余情の中心に据える。「やがる」や「め」が象徴するその心情の圧力が、言葉にドライブをかけて、荒っぽさは残したまま、結果的に妙にテクニカルな歌ができてしまった、というか。

 

……上に二首だけを読んだが、『羽虫群』を読むとき僕は、一首一首について、あるいは連作単位でも、なぜかその内容より、技術や作意といったところに目をやってしまう傾向にある。その理由がいまだに自分でもわからない。

 

謝ればどうしたのって顔ばかりされておれしか憶えていない
なんらかのテストのようでまた傘の角度を前に左に変える
忘れればみな美しい 夏空を千機万機の熱気球飛ぶ
鴨川に一番近い自販機のキリンレモンのきれいな背筋
期待とはこわれるまでの道すがら白いふくろをふわふわと踏む

/虫武一俊『羽虫群』