シャツの胸に十円玉が透けている日差しの中であなたは使う

相田奈緒「すみれ」
(2018年の髙瀬賞応募作とのことで、「短歌人」誌上に初出があるのかもしれないのですが、作者本人のnoteから引用しました)


 

若手歌人の歌を追っていて、いいな、おもしろいな、と思っていた歌人が気づいたら永井祐っぽくなりすぎてる現象がときどきある。別バージョンでは大森静佳っぽくなりすぎてる現象もときどきある。このふたりの似られかたはすごいと思う。こういうことってきっと昔からあったんだろうな、と想像もして、想像するとちょっと笑ってしまったりもする。高野公彦が量産された時期とか。ありそう。っぽくなりすぎる現象は、たいていの場合にどうしてそうなるのか話はわかる上に一過性の現象なのだけど、それでもわたしはせっかちに「そこじゃないところをわたしは好きだったこと、知るだけ知っておいてほしい」と暑苦しい耳打ちをしにいきたくなる。
相田奈緒も今のところ永井祐の影響がつよい若手歌人のひとりで、掲出した歌はそこまで似てない歌を選んできたつもりだけど、それでも、

 

五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう/永井祐
パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ 1円

 

といった永井の歌における小銭のありがたみや、

 

銀色の灰皿のふちをなめらかに日ざしがとおる 丸い灰皿/永井祐

 

のような歌の、モチーフのふちをなぞる光の質感を経験してから読むと、この十円玉に、この日差しに、声高ではないもののどれだけの輝かしさがこめられているのかは感じとりやすいと思う。では、永井との違いはどんなところにあるのか。もう一首、シャツつながりでこういう歌と比較してみたい。

 

シャツにワインをこぼした夏のずっとあとシャツにワインをこぼしたくなる/永井祐

 

「あの夏のシャツ」と「このシャツ」がすっと重なってワインのしみの残像がみえるような歌だけど、掲出歌の特徴はこの歌でいう「ずっとあと」のような接続がないことだ。上句と下句のあいだにおそらくは小さな時間の経過があるのにどちらも現在形でかかれている。「胸に透けていたあの十円玉」と「いま使われているこの十円玉」が重ならない。そもそも下句で使われているのが十円玉の話なのかどうかすら確定できない。歌の核になる十円玉が消失することで、一首のあちこちが透けはじめるようなところがこの歌の魅力だと思う。「ずっとあと」の欠落がたまたま起こった偶然ではないことは、同じ連作のなかの

 

遠い屋根の上で働く人たちが見えてた冬と春のミュージック/相田奈緒

 

というような歌からもいえると思う。上句の解像度の高さから一転、「冬と春」がいっしょくたに展開する。下句から振り返る上句の光景はなんだか五線譜のようである。
掲出歌のほうは、下句から振り返ると〈シャツの胸に十円玉が透けている〉の語順がそもそも奇妙だったことに気づかされる。下句でつじつまが合えば気づきもしなかったような軋みだ。胸や十円玉などまでが透けているようなこの語順は、その余りのように〈透けている日差し〉の連体形の可能性も残すけれど、日差しがもともと透けていることを考えるとその連体形は過剰だ。一首の下へ下へ、負荷がすこしずつ持ちこされていって、その負荷の決算のように「あなた」が不自然に出現するときに、歌のなかにそれまで「あなた」がいなかったことがあきらかになる。十円玉にせよ、ほかのなにかにせよ、それを「使う」という動作によって獲得される「あなた」であり、その動詞以外はなにも「あなた」を支えない。この歌のほんとうの輝きは、「あなた」の一回性にある。

 

逆からの風に全ての木の枝がしなる 愛を返さなくては/相田奈緒
愛がない所を分かりつつ進む 蜂が草のかげにかくれた

 

この文体で「愛」なのか。しかもそれこそ十円玉でも拾うように愛を発見するのか、ということにすこし驚くのだけど、これらの歌で輪郭や質感のようなものがあたえられる「愛」と、掲出歌の「あなた」は近いものなのかもしれないとも思う。