もう君の望むことしか言えないよ灰皿に落ちる無数の蛍

岩瀬花恵「木漏れ日」(「東北大短歌」第5号、2018年)

 


 

 

歌に「君」が出てきたら即それを(特に異性愛者の男女の)相聞歌だ、恋の歌だ、と読んでしまうことの浅はかを自覚させられるような読みのフィールドというのが出来上がりつつある、というかもうあちこちに出来上がっている気がする。「関係」というもののもつ多様性、というか、多様性という語で語ることさえももどかしいような数限りないそれを、既存の枠組みとその言葉でとらえることへのためらい、あるいは、とらえることに対するまっとうな違和感、をもてるような共通理解やそれに自覚的でいられるような感性が、短歌の読みの現場に限らず、ひろく〈社会〉のなかに出来上がりつつあるのかもしれない。……と安易に語れないような状況はまだまだ続いているけれども。

 

今日の一首、下の句で煙草の火が蛍に見立てられていて、「ホタル族」ということさえ連想してしまいそうな、それ自体はびっくりするくらい古めかしい喩えではあるのだけれども、ここではその灰、蛍の亡骸、のほうに焦点が当てられている。灰となった蛍。もう光を放つことのない蛍が無数に落ちていく。ちょっとおぞましい。しかも狭い灰皿のなかに落ちる。ほかに行き所がない。「落ちる」という語の暗さが強い。そのイメージを上の句にスライドさせていくと、ここには息苦しさや絶望を読み取ることもできそうだ。「君の望むことしか言えない」というのは、それ以外のことを言ったとしたら「君」に嫌われてしまうから、「君」を悲しませてしまうから、だろうか。それとももっと深いレベルで、ほとんど無意識のうちに「君」の望むことに合わせてしまう自分がいるということだろうか。服従や臆病といったことを思う。それが良いか悪いか、快なのか不快なのか、それを受け入れているのかいないのか、といったことは別にして、「君」というひとりと対峙したときに「君」の「望むこと」を軸としたことばしか言えないのだとしたら、それはいかにも縛られている。自分が「君」に支配されているような感じ。

 

ただここで僕が無視できなかったのは、結句がまさにその「蛍」の語で収められているという点。「煙草から離れて、火を失って、光を放っていない灰」と読むのが実景としては妥当なはずだが、最後の最後に「蛍」と言われると、この灰はまだ死んでいないような感じもする。灰となったあとで「蛍」になった、「蛍」として光を灯すようになった、という印象も受ける。すなわち、一首の余情の隅のほうに、蛍のあえかな光が灯りつづけることになる。その光を重ねて読むならば、上の句は「言えない」ということの不自由とともに、「君」によって自らの意思が左右されてしまうことの、例えば、恍惚をさえ読み取ることができるかもしれない。自分が「君」という存在あってこそのものになる、自分にとって「君」がすべてになる、その不自由と恍惚。しかしそのように読むと、その読みは、まさに「ホタル族」という昭和感ただよう語に象徴されるような、メロドラマ(って死語ですけれども)的なステレオタイプのウェットさで溢れていて(つまり恋の)、どうも一首の、特に下の句の乾いたイメージからは隔たってしまう気もする。

 

そのように読んだ上であえて付け加えてみたいのが、「蛍」がついに一首のなかで光を失わないことを考慮に入れたとき、上の句に次のような解釈の可能性もあるのではないかということ。それは、わたしと「君」はもう圧倒的な信頼関係のうちにあるのだから、「君」からわたしが愛されていることは当然の事実としてそこにあるのだから、「君」はわたしを愛しているのだから、わたしの言うことはすべてあなたにとって無条件に「望むこと」になるはずだ、という解釈。「君」との関係における自信、安心、あるいは自愛と言えるようなもの。しかしそこにはもちろん、万能感を背景とする寒々しさが見てとれるかもしれない。つまりそれが「灰」の印象。落ちる蛍が、わたしの蛍から、「君」の蛍へと、反転する。

 

この上の句はいくつかの種類の心情や気分を、幅をもって含み得ると思う。服従や臆病、不自由と恍惚、自信、安心、自愛の類い。そして気づくのが、だからこそこの上の句はついに空虚であるということだ。下の句が「灰」ということを暗くイメージさせながら、すんでのところで光を失わず、乾いたままであり、しかも上の句が心情や気分の類いを決定的には主張してこないがゆえに、「君の望むことしか言えない」ということがいかなる価値をもつのか完全には読みきれないゆえに、空虚なつぶやきのようにも思えるのだ。「もう」は時間の経過や「君」との関係の変化を伝えて、一首に物語の気配を付加する。けれどもその物語における心情はついに示されない。言えない「よ」という措辞も、その詠嘆の種類を主張していない。歓びのようにも嘆きのようにも、投げやりなため息のようにも思える。「君」への念押しかもしれない。

 

物語も詠嘆もそこにあるのに、そしてあきらかに「君」との関係性によってわたしのあり方が決定されているというのに、究極的にはわたしの心情や気分には到達できない。「言えない」ということがわたしにとってどんな意味をもつのか、ついにはわからない。

 

このような曖昧さを僕は、歌の傷とはどうしても思えないでいる。やはりそう思えないくらいに、下の句はある質感をたしかに伝えてくる。にもかかわらず、そしてだからこそ、上の句は、最終的に心情や価値を伝えない。やはり、空虚ということを思う。

 

唐突に、思いがけなく放たれたかのようにも見える無防備な上の句が、「君」の心情でもわたしの心情でもなく、「君」とわたしの「関係」ということそのものにのみ、輪郭を与えている。「君」を相聞の相手だと決めつけてしまいたくなるようなフォルムをしながら、その低温のたたずまいは、ついに「無数」としか言いようのない僕たちの「関係」について、その本質を突き付けてくるようにも思った。

 

花束を差し出すように開かれる傘に私だけの街がある/岩瀬花恵「木漏れ日」