平岡直子


墓石にかけようと買つてきた水の、ペットボトルに口つけて飲む

山下翔『温泉』(現代短歌社:2018年)


 

温泉は湧くものである。
吉岡太朗の幼児性、永井祐の貧しそうさ、吉田恭大の煮え切らない句読点、山下翔歌集『温泉』を読むときに脳裏をよぎる先行の若手男性歌人は少なくなかった。しかし、そこに川のような流れを見立てること、系譜として特定の歌人らの影響下に山下の歌を位置づけることは、できなくはないもののなにか不自然な感触があり、どちらかというとなにか離れた場所でとつぜん湧いてきた作風のように思われた。地下で水脈はつながっているとしても。

 

温泉は人を裸にする。
たとえば上に挙げた歌人たちのそれぞれの性質はある程度演出的なものだと思う。彼らには表現したい内容や作りあげたい文体があり、そのために選択して身につけているものが多い。あるいは意図的にデザインとして自分の一部を露出している。対して、山下の歌にはあけっぴろげに裸になっているかのような図太い素直さを感じさせられる。ページの背後にひとりの人間をたっぷりと担保するある分厚さがあるのだけれど、その分厚さ自体が現代的ではないことが作品をどこか宙に浮かせる。その奇妙なねじれが、この作者のためのひとりぶんの場所をつくり、歌集をまるで湧いてきたかのようにそこに立たせているのではないか。

 

温泉は水でできている。
ペットボトルから水を飲む、という光景は現代短歌のなかでくりかえし詠われてきたことだろう。
ただし、掲出歌の水はただのペットボトルの水ではなく、墓石にかけられようとしていた水である。墓石という物体そのものというよりも墓参りという行為や習慣を感じさせるこの上句は、特定の親しい死者との結びつきを否応なく想像させられる。量産されるペットボトル、軽くて透きとおったペットボトルから飲む水すら、瞬間的な場面になりえず、なんらかのつながりを重く引き連れながら飲む水なのである。影が重い。こういった影の重さが歌集中に有形無形であらわれつづけることが分厚い人間像を立ち上げるのだと思う。

 

温泉は贅沢品である。
屋上へつづく階段あらざればようもなくながくトイレにこもる/山下翔

 

温泉は閉塞的である。
屋上へつづく階段あらざればようもなくながくトイレにこもる/山下翔

 

温泉は解放感のある場所である。
屋上へつづく階段あらざればようもなくながくトイレにこもる/山下翔

 

温泉は閉塞的で、かつ解放感のある場所である。
掲出歌では水を横取りすることで、歌の主人公が墓石の位置を占めてしまう。墓石を押しのけて水をかけられる場面ということになるけれど、墓石は外側にかけられる水を、「飲む」ことで人間は内側にかけられる。なんだかメビウスの輪のような不思議なこの歌のめぐりをもうすこし理屈っぽく読むと以下のようになる。
たとえば上の〈屋上へ~〉の歌で屋上との接続が断たれた人物がトイレと接続するのとほとんど同じなりゆきで、掲出歌でペットボトルの水は墓石との接続を断たれ、口と接続する。水はペットボトルから身体へ、物理的には閉塞から閉塞へ所属を移すだけだけれど、上句の意味から下句では解放されているともいえる。ちょっと水の滴のようにもみえる読点は、「水の」が「ペットボトル」にかかる連体形を切断し、「水の」を詠嘆のようにみせていったん意味を切る。下句であらたに言い直されるとき、この水は「墓石用の水」という役割を離れ、ペットボトルというフォルムをなぞりなおすかたちで再発見される。このあたらしい水が身体の内面を洗うことの新鮮さは、閉塞的に思えるトイレも下水道というかたちで底が抜けているところと通じるだろうか。

 

温泉には男湯がある。
ごくおおざっぱにいって母親と男たちしか出てこない歌集だった。実際にまわりにいるのは男たちで、そのなかで目の前にはいない母親を憧憬しつづけている。なるほど、幼児が体験する公衆浴場とはこういうものだろうか、と、わたしは自分が見たことのない景色を想像する。