染野太朗


ひと跨ぎできるつもりがやや高くいちど腰掛けてから急いだ

山階基「ちゃら」(「穀物」創刊号、2014年)

 


 

冬の木にすずなりの豆電球は解かなくていい誤解のような
音を立て伸びきるときにほとばしるあきらめかけた輪ゴムのにおい

/山階基「旧い眼鏡をかけたまま」(「穀物」第5号)

 

一首目、冬の街の、電飾をほどこされた木々。それが「木」の本来の姿ではないということは、もちろん当然の事実だ。もし「木」が「こんなに派手にしているけれどこれは誤解です、自分の本当の姿ではないんです」と訴えたとして、たしかにそれは「誤解」された姿かもしれないけれど、誰もそれを本来の姿とは思わない。それが一時的な姿であることは見る側もわかっている。美しく光っているのだから、なおさらそれは「解かなくていい誤解」だ。もしそれを、人の都合で電飾を過剰に巻き付けられた痛ましいものととらえたとしても、やはり一時的なものなのだから、それをとりたてて息苦しく感じる必要もないはず。やはり「解かなくていい誤解」なのだ。
今、「電飾」として説明をつづけたけれど、実は「すずなり」と「豆電球」という語は一首に特別な質感を与えており(あるいはそれは、素朴でかわいらしいイメージ、文字通り「鈴」が鳴り出しそうなイメージ、かもしれない)、結句「~のような」という言い切りを避けた輪郭の淡い収め方は、主体の眼差しのぼんやりとした感じを想像させるかもしれない。ただ、ぼんやりと言っても、その「冬の木」への心寄せの強度は保たれていて、だからこそ電飾に「解かなくていい誤解」をさえ感じ取っている。さらにこの人が、誰かにされたままの「誤解」を解いてしまいたいとどこかで思っているのかもしれない、などといったことも読み取れるように思う。「冬の木」を見つめるその人の周囲にきっと「誤解」をめぐる物語があるのだろうな、と思わせる。それがこの一首の奥行きを生む。
二首目、「輪ゴム」の登場まで展開をひっぱる。「~あきらめかけた」までなんの話かわからない。だから結句まで読んで、もう一度初句から丹念に辿り直すことになる。輪ゴムを頭に思い浮かべて、それがぐっと伸び、何かしらの音を立てるようす(ゴムが白く伸びきるときの、ふつうは聞こえないようなみしっとでもいうような音なのか、それともびーんというわかりやすい音か)を想像する。ほとばしる、は水かなにかを指して言っていそうだし、音のことを言っているのかとも思うけれど、実際は「輪ゴムのにおい」。しかも「あきらめかけた」のだという。このまま切れてしまうなあ、という諦めの思いかもしれない。覚悟、とも言えるだろうか。結句までひっぱられたその内容は、一首目と同様、別の物語を想像させる。人が限界までなにかをして(がんばって)、あきらめかけ、そのときにほとばしるもの。初句から「輪ゴム」までの距離が長いからこそ、歌が具体的なモノゴトへの接続を後回しにしているように見え、それが歌の輪郭を淡くするし、その後回しの時間の分だけ「輪ゴム」と人を重ねたなにかしらの物語を意識してしまう。寓意、と言ってもよい。この「におい」を嗅いでいる主体の、そのような「輪ゴム」に重ねられる出来事を想像してしまう。「輪ゴム」への心寄せはまぎれもない。

 

たった二首を挙げたに過ぎないので、一般化するのはとても危険なのだが、山階の歌は、語の構成や修辞において印象の淡さや曖昧さを引き寄せるようなところがあり、しかしその淡さをテコにしながら、対象への心寄せの強度をもって詩情や寓意を読者に手渡すようなところがあるように僕は思う。読者として一首にとどまればとどまるほど、そのような読者の期待を裏切ることなく、その背景にある時間や思考、感情や直感の奥行きを見せてくれる、物語を見せてくれる、という感じ。

 

上に読んだ二首は、いずれも「冬の木」「輪ゴム」というひとつのモノを起点として寓意や物語の類いを見せているのだが、今日の一首は、ある出来事を、幅をもった時間をとおして提示している。まず、句跨りがとてもおもしろい一首だと思う。「ひと跨ぎ」の直後に句の切れ目があるから、ひと跨ぎしたあとの映像を思い浮かべてしまうけれども、実はひと跨ぎできていない。まさに「つもり」というところがこの句跨りに重なってみえる。それから「腰掛け/てから急いだ」の句跨り。いかにも急いでいた勢いが止まって、「いちど腰掛け」ている感じがする。
音の構成と歌の内容を一致させるような読みは読者の恣意的な解釈に基づくものが多い(この連載で僕も何度もそれをくりかえしてきたと思う)。もちろんそのような一致を掘り起こす読みもたのしいし、大切だと思う。けれども音の構成は音の構成、内容は内容で分けて考える読みもきっと大切で、なぜならそれは、読者としての恣意に敏感になることでもあると思うから。また、短「歌」であるのならば、かならずしもそのメロディーやリズムや音量を言葉の意味に従属させる必要はないと思うから。このあたりは慎重に話したいことだしキリもないのでこれ以上触れないでおくが、しかし、今日の一首の場合、この句跨りを上に記したように内容とかかわらせるとき、主体の動きがよりクリアに見えて、ある場面を切り取った短い動画として歌がとても生き生きとしてくるように思う。

 

その上で大事なのは、この歌が最終的に見せてくれるのが、場面や動作のコミカルな感じ、動作と音との共鳴、といったところではなく、主体が急いでいる後ろ姿だ、というところ。もちろんまずは、丁寧かつ簡潔に構成・再現されたこの動作に引き込まれるし、これがガードレールか柵か何かのことであって、隠されたそれを言わないままで想像させるおもしろさなどもあるのだけれど、そのおもしろさとは別に注目すべきは結局その後ろ姿、つまり、主体は何らかの事情があって急いでいる、ということなのだと思う。主体にとって目下の大切は急ぐこと、そしてその先の目的(地)に到達すること。なぜ急いでいるのか、どこに向かっているのかはわからない。それなのに、間に合ってほしい、と応援したくなる。がんばれ、と声をかけたくなる。そのような気持ちになるのにはさまざまな理由が考えられるけれど、なによりまず、この一首があまりにも「人」というものの姿を生き生きと描いているからだと僕は思う。急いでいるときにふと差し挟まれるこういう感じ、そういうところでこそその人の性格や身体が明らかになってしまう感じ。

 

その向こうにある物語と、モノやコトに対峙したときの思考や感情や身体の機微が、淡さのなかで手触りを増しながら、魅力的に迫ってくる。

 

白い布はずされながら美容師にまだ引っ越しを伝えていない
手に揺れる素朴な舟はたこ焼きを乗せてあなたの隣をゆくよ
使おうとペッパーミルをつかむたび台にこぼれている黒胡椒
銭湯の玄関さきにたむろする猫をいくつかまたいでおいで
なれるなら夏のはじめの夜の風きみのきれいな髪をかわかす

/山階基「コーポみさき」(角川「短歌」2018年11月号)