裏をかきに・いけない炎のまけない声のいけない炎の六花書林の

飯塚距離「あのバラバラは何ですか?戦意喪失のロベール・ペイシェンス」
(Website「パンデモーニカはぱんでもヶ丘」


 

裏をかきに。言いさしから予感される「いく・いかない」の選択肢はいったんナカグロでせきとめられる。その先であらためて選択される「いけない」からだんだん声が張り上げられ、高音がかぶせられていく。顔寄りの歌と声寄りの歌がある。飯塚距離の歌は声寄りの歌だと思う。
六花書林は歌集・歌書の発行に特化した出版社である。つまりこの歌は歌、歌集を読む経験のことを言っているようにも思えるし、そう読むと初句の「裏をかく」は、出しぬくという慣用句的な意味のほかに、紙の裏表や本の裏表紙の感触なども思い浮かべさせる。歌が書かれた紙のその裏側になにかを、おそらくは鑑賞や解釈のようなものを「書く/書けない」ということ。一首はそういった紙、ページがめくれるのイメージを連れながら、「炎」と「声」のあいだをなんどかめくれ、裏返る。炎をおしのけるような「まけない声」、その背後からもういちど出てくる「いけない炎」は初句からの距離を経てすでに「(裏をかきに)いけない」ではなく、独立した淫靡さがある。結句以外の各句に含まれるそれぞれ一、二音の小さな字あまりによる高揚も含め、歌は上ずっていく。それらすべてを冷やすのが結句の六花書林だ。炎と雪の衝突。ぱたんと本を閉じた感じがする。出版社名が書かれている場所は一般的に本の「裏」である。

 

向日葵が住所ならね次へと・次から・次へと確率が胸を張るのが/飯塚距離
樹氷このうえしたに途絶えあう声が近い海とは和解出来ない
じゃあ、という悲歌にお砂糖の兵隊が言った言葉が言っていること
みちひきのみで夢中に引退する鏡がつかんでいった瀬戸際
ヘリコプターは第何感の全仕事っていうほどじゃない杉かも知れない
同じ服違う服こえて服は手をなげない海の雪の問題意識
月で死んでもひろがる蛋白質からの命乞いもなつかしくくすむ愉しみ
それだけは氷をかき集めた小銭のように衰えてもしないだろうような
する 大きくなったらふしぎなこと維持する胸に将棋の世の保険証
いちど最愛から帰還するほど月に名のある倒れかたに倍して

 

飯塚距離は稀に同人誌へ寄稿やネットプリントの発行があるものの、自らのブログを主戦場にしている。そのブログに掲載されている短歌、数えていないけどたぶん歌集一冊分くらいはあるんじゃないかというそれなりの歌数のなかからこうして美しいと思う歌を引用していくとわりときりがないのだけど、こういった歌はわたしに日常生活のなかでの「声」についてのいくつかの経験を思い出させる。たとえば、メロディは知っているけれど歌詞をうろ覚えの歌を口ずさみたいとき、てきとうに当てる口から出まかせの歌詞だ。それからたとえば、上の空の会話。話している相手の話の内容や意味がまったく頭に入ってこないときでも、声の抑揚によって要請されている合いの手はわかるし、適切な抑揚の合いの手を挟むことができる。そういう形で、意味ではなく抑揚とリズムでコミュニケーションをとる習慣が大人にはある。あるよね?
もうひとつ思い出すのは「フレーズ」という単位のことである。〈向日葵が住所ならね〉〈ヘリコプターは第何感の全仕事〉〈蛋白質からの命乞い〉印象的な言葉の断片。これらは単語でも一文でもなくフレーズである。こういったポエジーの乱反射のようなつよいフレーズだけでなく、もうすこし警句的なものなども含め、短歌にはフレーズの保管庫という役割があると思う。人が短歌を愛唱するとき、一首まるごと覚えることももちろんあるだろうし、たくさんの歌を助詞ひとつまちがえずすらっと暗唱するのを得意とする歌人が意外と多いのも知ってはいるけれど、歌の一部だけを大切に抱いている人も多いのではないだろうか。ある強烈なフレーズを記憶していて、その周辺の修辞は、雰囲気はおぼえてるけれどピントが合わずうろ覚えだ、という歌。そして、そういった歌の記憶されている以外の部分も無駄じゃないと思う。歌のなかに留められなかったら霧散していたフレーズかもしれない。
声、フレーズ、これらの連想の先には現代詩がある。声で読ませる文芸といえば現代詩で、フレーズの保管庫として最大の容量を持つのも現代詩である。そのせいだろうか、顔よりも声に寄った短歌がどうしても「現代詩っぽい」という意見に含まれる「短歌じゃない」という言いがかりにさらされがちになるのは無視できない話のように思う。けれど、現代詩にひびく声はいわばアカペラのようなもので、短歌固有のメロディーのいくつかのバリエーションを利用した作歌や、その作歌によって短歌のメロディーのあたらしいバリエーションをまた開発したり……という短歌の歌いかたとは根本的に異なるものである。書いていて思い出したのは佐佐木幸綱による「歌壇がカラオケ状態だ」というおもに若手歌人の状況を指した批判で、おそらく発言者の意図とは違うであろう理解で「なるほど、短歌とはカラオケだ」と納得したことがわたしは何回かあるのだけど、ふたたび納得しそうになっている。