染野太朗


にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて

佐々木朔「まちあるき(全国版)」(「羽根と根」通巻8号、2018年)

 


 

平岡さんの昨日の回と同じ作者で、しかもそこで最後に挙げられていた一首ですが、偶然の一致です……ご了承ください。

 

冬になれば日が当たらなくなるだろうベンチできみに思い出を言う
ことばって火だしあなたの山火事ももう諦めなくてはいけないね
これ以上言えばこわれるぼくたちの間にシークワーサーサワー
だとしても森のひかりがまぶしくて石段のつなぎめによろける

/佐々木朔「往診」(「羽根と根」創刊号)

 

一首目、「思い出」とは過去のものだから事実としてもう変わらないもののはずだけれど、それを言う場としての「ベンチ」は、季節が移って冬になれば、日の射す角度の関係か、あるいは周囲に建物でもできるのか、変化してしまう。遠くない未来にその「思い出」まで変わってしまうかのよう。あらゆる過去は、事実としては変わらないかもしれないけれど、たしかに、それが良い思い出なのか悲しい思い出なのか、どのような質のものであるかは、その事実を見つめる人自身の解釈ひとつでいかようにも変化する。「思い出」の可変性という、ごく当然でありながら忘れがちな、見失いがちな真実をこの一首は教えてくれる。二首目、自分の「ことば」が「あなた」の心情をかき乱したのだろうか、それともそのような心情が「火」のように熱くて誰かを火傷させるような「ことば」を言わせたのか。いずれにせよ、そもそも「火」なのだから、という納得の仕方。結句の助詞「ね」が一首をシリアスにはしない。そこに生まれる余裕が、「ことばって火」という直観的かつ思慮深い措辞に読者を長くとどまらせる。三首目、句跨りを経るこの「シークワーサーサワー」の独特の間延びが、「こわれる」ことよりもこのサワーの存在感を強調する。緊張感さえ伴い得る大事な場面、だからこそそのときにあったモノが強調されて記憶に刻まれる、というようなことも思う。そしてこの三首について、主体は未来を先取りしている、ということを思う。また、主体の想定する「前提」の分量が多い、ということを思う。この人はこの先の「冬」の「ベンチ」のことをすでに知っている、そこに意識を向けている。前提として「ことば」は「火」だという認識がある。「これ以上言えばこわれる」とすでにわかっている。四首目、読者にはついにそれが何なのか完全にはわからないけれど、「だとしても」と言うからには、ここに描かれていない出来事や思考、つまり前提があるのは確かだ。一首以前にある余白をどうしても埋めたくなる。世界や自身に対する主体の視野が広い、といったことも思う。俯瞰がかならず差し挟まれている。

 

三十分電車に乗ってやってきた南の街で食べるコロッケ
喫茶店で飲めばコーヒーもわるくない きみが電話をかけに出て行く
はつなつの洗顔フォームうつくしくまとえば誰もいない朝焼け

/佐々木朔「走る」(「羽根と根」通巻2号)

露天風呂の湯気を夜風が取り去って晴れあがったらすこし涼しい
ホチキスの針をどっちに打つかって話したせっかくの風のなか
落ち合えばそこが湖辺(うみべ)でいっせいに鳥が飛ぶのを眺めてました

/佐々木朔「湖辺で」(「羽根と根」通巻3号)
※( )内はルビ

 

モノや場面がやけに鮮やかだ。たとえば一首目、この「電車」や「街」は匿名のものでありながら、少なくともその「三十分電車に乗ってやってきた」という行動が、「街」と主体との〈関係〉に輪郭を与えるから(しかもそれは「南」という語の質感とともに示されるものだ)、その輪郭が「コロッケ」を、素朴さを保ったままどこか特別なものにしてしまっていると思う。詳述はしないが、「三十分」という時間と「やってきた」のやや大仰な感じの両立や、「っ」や「ん」やアの音の印象とそれが「コロッケ」の質感に与える影響も見逃せない。二首目は「喫茶店」で飲む以外の「わるい」コーヒーがとても印象に残るし、「洗顔フォーム」や「露天風呂」の空間とその「湯気」、書類の隅のどこに打つかを話す場面も、やけに現実的な手触りがある。四首目、落ち合った瞬間に現出するかのような心象風景としての「湖」と、そこからおそらく、水鳥が飛び立つようす、そしてそれを「眺める」と俯瞰するような態度は、落ち合った相手をめぐる主体の心情を想像させてやまない。湖の清冽や飛ぶようすに、高揚や、あるいはむしろ空虚などを読み取ってよいにせよ、現実的な場面も心情もついになにひとつ具体的ではない。けれども具体を超えて、読者に〈体感〉させるものは非常に鮮やかだと思う。「落ち合う」という語の語感、質感が一首をいつまでも覆っている。

 

……またもや今日の一首に続かなくなってしまったのだが、かまわずに今日の一首を読みます。プルーストの『失われた時を求めて』が想像されるし、結句の「て」も接続先が曖昧だから、文字を読み間違えたとわかった瞬間にギャグとか洒落のように下の句が頭に浮かんだだけ、というようにも読めるのだが(また、この一首そのものが『失われた時を求めて』の内容や主題の一部を象徴的に語っているのかもしれないが)、たとえば、「にしんそば」を食べさせる店だと勘違いして、その時点でにしんそばを食べたくなってしまったから、食べられる店をこれから探しに行くのだ、というふうに読んでもよいのだと思う。まあその場合いずれにせよギャグのようになってしまうのだが、つまり、そのような可能性がユーモアとなって歌を脱力させ、それによって歌はむしろスマートにととのいながら、その上でこの一首にあらわれているのは、「にしんそば」を求めた自分のその心を信頼するというか、大切にするというか、自らの心と対峙するというか、そういったことなのではないかと僕には思える。なぜ「にしんそば」と読み間違えたのかということ、それによってにしんそばを食べたくなった自らの食欲、にしんそばの映像、匂い……そういった心の動きや、幻の「にしんそば」そのものを簡単には手放さずに見つめつづけるありよう。現実を認めながら、自らの心を、その現実に安易には従属させない主体がここにいる。しかもやはり余裕がある。大げさなようだが、「自由」ということについて考えさせてくれる一首だった。