駅で見た猫の写真がこの町のすべての猫の始祖だと思う

佐々木朔「到達」(「羽根と根」五号:2016年)


 

駅で見る猫の写真はおそらく迷い猫のチラシだろう。それは失われた猫であり、行き止まりだ。その行き止まりから返り咲くように、その写真が町のすべての猫の始祖だという。たしかにあのように写真が飾られて(?)いることは、先祖や創始者をリスペクトする文化の一環のように読み間違えることはできるかもしれない。チラシの大量に複製される性質が、猫の増殖と重なり、コピー機で猫を増やしたかのような奇妙に具体的なイメージを立ち上げる。
町中の猫のオリジナルとしての花を持たされる猫は、しかし、依然失われている。

 

今年ちょっと話題になった佐々木朔の歌〈消えさった予知能力を追いかけて埠頭のさきに鍵をひろった〉は「探偵と天使」というタイトルが冠され、コナン・ドイルの小説の引用にはじまる連作におさめられているもので、この連作では〈探偵の眸(まみ)のままではあぶないよ〉〈かわいいだけの天使でいたい〉と〈探偵〉役が否定されてはいるのだけれど(予知能力も消えちゃうし)、それでも佐々木は作品の上で探偵役を引き受けているような気がする。人が死ぬことで話がはじまるミステリ小説のように、歌のなかではなにかがあらかじめ失われている。手持ちの材料を組み立ててその喪失を慰めるのが探偵の役割である。それから、町に対してつねにストレンジャーであるところも探偵っぽい。掲出歌の「駅」にははじめて降りたつ町の手ざわりがある。たとえ現実には毎日通っている駅であるとしても。

 

あなたに会いに行くためならば県道で、県道がだめならば市道で/佐々木朔

 

この歌ではなんらかの理由で「県道」という選択肢が失われている。それに対して下句で示される打開策はいっけんほんの小さな譲歩である。自治体の単位として県の下位に市があるという構造から、自動的に導き出された次善策のような。しかし、県と市の関係は、県道と市道の関係と同じではない。現実には、なんらかの理由で県道が通れない場合にスペアのように市道が浮上するわけではなく、たまたま近くを市道がはしっていたとしても多くの場合にそもそも方向が違うだろう。〈あなたに会いに行くためならば〉のひたむきな熱は一首の最後まで保たれるものの、その目的は半ば忘れられ、歌の関心は「県道と市道」の関係、その近くて遠い複雑さに移る。
この歌、あるいは掲出歌は、「失われたもの」に対して軽口を叩いたり、てきとうなことを言っている歌である。佐々木の作風は美意識がつよく、感傷的で端正な文体を持っているけれど、自らの作風の繊細さをはにかんでいるようなところがあって、それが文体を硬直させるのを防いでいると思う。

 

にしんそばと思った幟はうどん・そば 失われたにしんそばを求めて/佐々木朔