染野太朗


もみぢいよいよ燃えて一切まにあはぬ我のひと日を笑ふうつくし

馬場あき子『渾沌の鬱』(砂子屋書房、2016年)

 


 

あのクリスマスソングを聴きたくなってしまったけれどまだ夏だしそぐわないな、でも今すぐ聴きたい、でも今あんまり聴いてしまうと慣れてしまって肝心のクリスマスのときにそのクリスマスソングの感動が失われてしまうからとりあえず我慢しよう、といった気持ちに近い思い入れを僕はこの一首に対して抱いている。だから紅葉の時期まではなるべく思い出したくないのだけれども、ふとしたときに頭をよぎったりする。もちろんこの時期は我慢することなくこの歌をくりかえし口ずさむ。

 

見えてくる景はシンプルにも見えるが、実はとても複雑な表情をもった一首だと思う。

 

この歌が頭をよぎるとき、そのときどきにフォーカスするポイントがいくつかあって、たとえばそのひとつは初句の七音。特に「いよいよ」あたりを強めに、わずかにうねるような節回しを仮定して読んでいる。その強さが「燃えて」を強調する。それから「まにあはぬ」。一日かけて、するべきさまざまな仕事や作業がひとつも終わらなかった、というふうにまずは読んでみる。もちろんそこに、生活や人生というものの全体における自分のせわしなさを重ねてもよいとは思うけれど、まずはあくまで「ひと日」という言葉に沿って、一日の仕事として読みたい。するとそのあとで、「うつくし」という感慨が一日の終わりに発せられたものなのだとわかる。それでこの「いよいよ燃えて」は、「もみぢ」そのものの色がいよいよ深まってきた、というだけでなく、夕陽によってその色を増しているのだ、というふうにも読めるようになる。「もみぢ」そのものの色がどんどん濃くなっていく期間と、夕焼けの時間帯が、歌のなかで交わる。二種類の時間の交差。だから見えてくる赤は、擬人化も相まって、すこしだけ観念寄りの、抽象的な赤だ。

 

さらに見逃せないのは「一切」。これはもちろん「まにあはぬ」ということの程度を言っているわけだけれども、促音を含む鋭い音と、場合によってはこの漢字の印象そのものが、統語上の「まにあはぬ」との関係を越えて、「もみぢいよいよ燃えて」ということを強調するようにも僕には感じられる。この歌に限らずそういうことはあってよいと思うし、それを避けて統語のままに読もうと思っても、短く、そしておのずから回帰性・循環性(つまりごく簡単に言えば、歌は一首を初句から結句まで読んで終わりというものでなく、伏線を回収するかのように、結句からまた初句に戻って修辞を読んだりもする、といったこと)を示す「短歌」においては、どうしてもそのようなことが起きてしまうのだと思う。

 

「もみぢ」が鋭く、勢いをもって燃えている。

 

にもかかわらずこの歌は、その鋭さや勢いといったところには一首のイメージを収束させない。「まにあはぬ」のひらがな書きの影響が思いのほか大きいのだと思う。間に合わないということの切迫や焦りより、間に合わないからこそ諦めてしまうというか、淡いというか、弛緩しているような印象をもたらす。そして「うつくし」。「もみぢ」は「我のひと日」を眺めて、嘲笑しているのだろうか。焦りを掻き立てるように哄笑しているのだろうか。小さなことに煩わされてバカだなあ、つまらないことにとらわれているなあ、と呆れたように、でも大らかな笑いを向けているのだろうか。「もみぢいよいよ燃えて」「一切」というところから判断するならば、「嘲笑」や主体の「焦り」を読み取るべきとも思えるけれど、そのようにはどうも読めない。人間の営みの瑣事にとらわれることなく色をあざやかに深める「もみぢ」に「うつくし」といって眼差しをやる主体には、それが諦念であったとしても、どこか余裕がある。あるいは、「もみぢ」へと目を向けたことによって余裕が生まれている。その眼差しから返って、「もみぢ」の笑いは、とても穏やかなもののようにも見えてくる。

 

結句でふいに置かれる「うつくし」で、歌は主体の主観に集約される。燃えるような紅葉のありようや「一切」の語感、間に合わないという苦しさが、「笑ふ」のあとの短く浅い呼吸のあとで、「うつくし」の余情に覆われる。そして「うつくし」のその余情は、この「うつくし」を主体の主観から解放する。この「うつくし」を、僕はまさにこの語のとおり美しいと思う。紅葉の美しさのみを指した「うつくし」ではない。「もみぢ」を眺める主体自身や、あるいは瑣事に煩わされながら日々を送る人間というものの全体をとらえて包み込むような「うつくし」でさえあると思う。燃える「もみぢ」の存在感が、自らとそのせわしなさを小さく見せ、同時に、ついに「まにあは」なかった自分の情けなさを際立たせ、しかしそれらのすべてが、この世の営みとして、諦念に近いような余裕を含みながら「うつくし」へと集約する。……結局「この世の営み」とまで大きく言いたくなるのは、「もみぢ」と「我」、つまり自然と人間との眼差しの交差が擬人化をとおして大らかに描かれているからだろう。

 

やはりこの一首は、思いのほか複雑な表情をしている。語同士が、統語の関係を越えて影響し合う。色彩や時間、笑いや眼差しが交差し合う。

 

「もみぢ」と、それへの眼差しと、「うつくし」という感慨は、励ましにも大仰な肯定にも傾かずに余情を深くする。「うつくし」と漏らしたこの主体はきっと、体の力をわずかに抜いている。その表情(たぶん微笑んでいる)が「もみぢ」を、そして読者をも包み込んでしまう。