梟(ふくろう)に禁じられているごとし女同士でテニスすること

大滝和子『人類のヴァイオリン』(砂子屋書房:2000年)


 

絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい/枡野浩一

 

『ドラえもん』にくぐった人間が小さくなる「ガリバートンネル」という秘密道具がある。枡野浩一のこの歌はなんだかそのガリバートンネルに似ていて、奔放な野望が述べられている歌ではあるのだけど、一首をくぐる過程で大風呂敷がたたまれていって、最終的にはなにもない小さな人間が放り出される。絶倫でもなく、バイセクシャルでもなく、変身もできず、全人類と愛し合うこともできない。ひとつずつ剥がされる。「絶倫」「バイセクシャル」「変身」「愛」などへの幻想がわずかに澱のように残る。
大滝和子の作品を読んでいると枡野のこの歌を思い出すのは、性質が対照的だからだと思う。大滝が〈絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合〉うことをナチュラルに達成していることは、

 

人類のすべての人と見つめあう心となりぬ固き寝台/大滝和子
月齢はさまざまなるにいくたびも君をとおして人類を抱く

 

など、「全人類」をキーワードにした歌にとくにわかりやすいと思うけれど、「バイセクシャル」性がつよい歌、軽やかに「変身」する歌も多く、上の枡野浩一の歌は「大滝和子になりたい」という歌だと翻訳してもいいのではないかとすら思えてくる。
上の枡野浩一の歌の修辞上のポイントは「絶倫」だと思う。「バイセクシャル」というある均衡性のある言葉と、「自分:全人類」というきわめて不均衡な構図を一首のなかに両立させるのが、「絶倫」というパワーワードである。そのいささか強引な解決ができるのは、枡野の歌にとって「絶倫」がファンタジーだからだ。対して、「絶倫」性は織り込み済みである大滝の作品は、そのスケール感によって生じるひずみをどのように処理しているだろうか。そのひずみを運用できているか否かが大滝の歌の明暗を分けるのだと思う。たとえば上に引いた二首目の〈君を通して人類を抱く〉という部分や、〈声きよい君をとおしてわたくしはありとあらゆる動物の妻〉という歌にあらわれる、「君」という客体を媒体のようにする方法、それによって「君」のニュアンスが拡大されていることもおもしろいけれど、わたしが注目するのは以下のような歌である。

 

百合の香は廊下をまがりこの部屋の鏡のなかへながれ来たりぬ/大滝和子
右側と左側とがうつし世にあるさみしさや君とあゆめり

 

こういう歌に感じるのは、一首のなかで軸が仮定されたのちにずらされているということだ。一首目の百合の歌で絶妙なのは「廊下をまがり」で、ここで折れ曲がることで百合の香は、あるいは一首は不可逆的になる。鏡をはさんだ二つの世界という線対称な構図からはみ出すのだ。あるいは二首目で「右側と左側」ははじめは「自分の両側」のようにみえる。自分だけが「うつし世」からきわどく陥没しているようだけど、下句で並んで歩くふたりの人物が想定されるとき、「右側と左側」は「私と君」にすり替わり、陥没していた場所は消えてしまう。

 

梟(ふくろう)に禁じられているごとし女同士でテニスすること/大滝和子

 

空間的な軸のずれを感じるのが上の二首なら、今日の掲出歌は意味の軸がずれるのを感じさせられる。「禁じられている」「女同士」という言葉つきは同性愛に対する弾圧を連想させる。しかし歌を最後まで読むと、女同士で「テニスをする」のは一般的なことである。それどころかスポーツの公式な試合は身体能力の差を鑑みて男女を厳密に分けているわけで、そういった場では「禁じられている」のはむしろ真逆の内容だ。歌は途中で廊下をまがり、対称的に釣りあうことを拒む。同性愛とスポーツ、どちらかがどちらかの比喩におさまらないので、歌の上に錯覚したことが歌を通りすぎると消えてしまうような感覚がある。
梟はさまざまな象徴性をもつ生き物で、一首全体をどういう線で読むかによって梟から読みとれるものは異なるし、掲出歌が明確なひとつながりの線がないタイプの歌である以上、梟の顔はひとつには定まらないだろう。「知恵の象徴」から「人間のような知能がない生き物」まで、まったく逆の意味になってしまうほどの振れ幅すらあるけれど、ここではひとつだけ、夜行性という性質を取り出してみたい。テニスをするおそらく一般的な時間帯である昼間に梟の目は届かない。昼間に女性同士がテニスをするというのはあかるくふつうの光景だけど、それを「梟の死角」という角度からみる可能性を示されると、その光景にはなんだか不思議な官能性が付される。なにもしていないのに裏をかく、というのが、掲出歌に、そして大滝和子の歌にときどき起こるすごい現象だと思う。

 

 

砂子屋書房さんへ。「現代短歌文庫」に『大滝和子歌集』が加わるのを超待ってます。