ひるがえる踵ばかりを見てしまう知らない人についてゆくとき

増田静『ぴりんぱらん』
(Bookpark、2003)

暗がりの狭い路地のような場所を先導されて歩きながら、前をゆく人の踵が勢いよく持ち上がるたびに、不思議とその靴底が白っぽく、蝶のようにひらめくのが見える。そんな情景が思いうかぶ。知らない人についていってはいけませんと、だれもがきつく言われて育ってきた。この歌の「知らない人」は、別に誘拐犯のような悪い大人ではないのかもしれないし、ついていってしまう主体の方だって大人なのかもしれない。それでもわざわざ「知らない人」といここでいうのは、そんなイケナイことだってできる大人になってしまった、というある種の感慨があったからだろうか。

ねえピルケースに蟹が住んでるの見た? 脱ぎすてた靴あんなに遠い
なんでなんで君を見てると靴下を脱ぎたくなって困る 脱ぐね
スニーカー濡れたまんまのそのなかにひたせば記憶をひるがえる魚
太陽の死角をとってあたしたち裸足でぬるい牛乳を飲む

こうやって歌を引いていくと、『ぴりんぱらん』という歌集の主人公は、足や、靴下や靴、といったあしもとにひっかかりがちである。二首目、「なんでなんで」の歌はこの歌集からはよく引かれる代表歌のようだが、たとえば、好きな相手の前でよっぱらうと靴下を脱ぎたくなるという気のいい人のようでもありながら、その一言のセリフだけが定型というフレームに収められて提示されるとき、そこに何か重大な真実が隠されているように思えてくる。この人は靴下を船の舵のように使って(その脱いだり履いたりの操作によって)、自分を操縦しているのではないか? あるいは一首目では、「ピルケースに蟹が住んでるの見た?」という謎の問いかけをしながら、さりげなく靴の場所を確認する。「あんなに遠い」となれば、もはや自分で舵取りをすることはできず、もう相手にゆだねるしかない。

三首目は、いっけん歌意が通りづらいのだけれど、靴(スニーカー)が、まるで記憶を保つ装置のようだ。スニーカーから飛び出してくるかのような魚の存在は、さながら活きのいい思い出の証拠といった調子。一方で、四首目で裸足なのは、なんにもないところから新しく歩き始めるという若々しい希望を象徴しているように思える。そういえば掲出歌では、踵という言い方をして、靴を履いているのか、それはどんな靴なのか言明されない(何かしらは履いているだろうけれど)。この先どうなるかわからないぞ、という、いわば興味本位で連れ去れておきながら、自分の行く末をいくらか神妙な気持ちで見つめようとする、こんな愉快な人の、ちょっと意外な一面、そういう歌なのだと思う。

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