染野太朗


家々にしずかなる松葉降り当たりうつくしき色、茶色というは

内山晶太「うろつく」(「現代短歌」2018年6月号)

 


 

内山の歌のなかでは特にシンプルで、レトリカルには見えない地味な印象の一首なのだが、この歌を手がかりに考えていきます。

 

家の壁や窓に、松の葉が当たっている。家の数は複数だけれど、人間である主体の視野の範囲・認識の範囲と、針のような松の葉の長さ・細さを思えば、その数はそう多くはないだろう。それが「降り当たり」と表現される。二度響く「り」も印象的な、おもしろい複合動詞だ(ゆたかな複合動詞は、歌の技術としてとても魅力的)。そして、松葉の当たる音がかすかに聞こえる。サラサラ、チリチリ、あるいはシャッという音も聞こえるだろうか。こまかくふるえるように音が聞こえる。しかしその音や、松の葉の形状、あるいは松の葉を家々まで飛ばした風などへと表現が集約されることはなく、ここではその「色」に意識が向けられる。枯れた松葉なのだ、とここでわかるわけだが、もしかしたらこれは、家々の壁の色を言っているのかもしれない。松葉が当たったからこそ意識された「家々」、そしてその窓や壁。「松葉」の動きを描いていながら、「うつくしき色」以下で、「松葉を描いている」ということの一部を、あるいはそのすべてを無化してしまう。「降り当たり」までは実景をはっきりと思い描くことができるけれど、「降り当たり」という順接と「うつくしき色、茶色というは」という限定によって、主体の意識の向いた先が「松葉」であるのか「家々」であるのか、その対象が拡散してしまう。当然「松葉」のことを言っているのだろうと思っていたのに、その、音や形状を無視するような措辞のおかげで、実景がはっきり見えていた僕のあたまのなかで、その実景が薄くなり、半透明のようになる。そしてそのように拡散した結果、こちらに伝わるのは「茶色」という色のみである。そしてそれを「うつくしき色」と判断している主体のつぶやきのようなものだけである。この歌が見せているのは、実景としての「家々」でも「松葉」でも、その動きでもない。主体が「うつくしき色」と判断した「茶色」という色のみである。しかも、なぜそれを「うつくしき色」と判断したのかはわからない。その理路は示されていない。深読みによってそれを特定しようと思えばできるけれど、そもそもこの茶色が「松葉」の色なのか「家々」の壁や窓のものなのかわからない以上、特定することはきっとできない。そのように考えるとき、「家々」や「松葉」や「降り当たり」を実景として読んでよいのかどうか、その根拠さえ揺らぐ。そして、この歌は「茶色」をうつくしく描いているのではない。「うつくしき色」と言われるからこそそれが読者にとっても「うつくしき色」になるのである。この「うつくしき」は、積極的に交換可能だ。「きたなき」でも「しあわせな」でもよい。つまりこれは、主体にとってのうつくしさでしかない。この歌から読み取れるのは、究極のところ、「うつくしき」という主体の判断のみ。

 

内山晶太の歌の特異な点のひとつは、歌一般が基本的に「主体の外部・周囲を、意識や五感でスケッチする」という形をとっているのに対し、「主体の内部の意識や五感をスケッチする」という形を見せているところだと僕は思う。意識・五感「で」、でなく、意識・五感「を」。主観、と言われるものが意識・五感によってなされているとして、しかし内山の歌は、ごく主観的な形態で対象を描きながら、読後に見えてくるのが、主観が眼差す「外部」ではなく、主観を眼差す「主観そのもの」なのである。しかしそれは決して、特殊な構造をしていない。あくまでも外部を客観的にスケッチするかのような、描写の形をとっている。

 

主観そのものとは、たとえば、「うれしい」とか「かなしい」とか「うつくしい」とか「きたない」であるはず。気持ちや判断こそが「主観」であるはずだ。歌に描かれるとき、それ以外のものは「主体の外部にあるもの」という形で見えてくるのではなかったか。ところが内山の歌にあらわれる「外部(的なもの)」は、あくまでも主体の内部にあるものとして見えてくる。「内部」が「外部」を包括し、その「外部」と「内部」の両方を、それをさらに包括するなんらかの意識が描写している、という構造が見えてくる。

 

しかし考えてみれば、僕たちは自分の身体をとおして外部と接しているわけで、誰しもが、内山が歌に見せるような構造をもって生きているのではなかったか。にもかかわらず言葉を使用するということは、内部と外部を区別した、その二項対立を前提とするかのように行なわれてしまう。

 

内山の歌は、そんなこと不可能であるはずなのに、その二項対立が無化された世界を、かなりの頻度で見せてくれる。つまり意識のみが、あるいは、その意識を含めた身体のみが存在する世界。外部のない世界。それはつまり、真に孤独の世界だ。そしてそれは、誰にも共通する、僕たち本来の姿ではなかったか。内山の歌は、文体そのものが、あるいは、レトリックそのものが、人間というものの本質に太く濃く触れているような気がする。

 

みずからの声がするなり通勤のひとりで歩くこころ細さに
胸、秋のごとく疲れてちぢみゆく感覚を胸の指に吟味す
白きタイルに囲まれながらゆまりして のちのみじかき震え、頸より
雨降りてこの世のことばいくつかが消ゆるところを水面と呼ぶ
歯にはさまれるパイナップルを濯ぎおとす午後、吐き出せばひとりきり滝

/「うろつく」

 

四首目、「雨」「降る」「水滴」「粒」「にわか雨」「豪雨」「水紋」「冷たい」「激しい」……「水面」に消えたのはこういった「ことば」だろう。すべてがそこにある「水」となる。広範囲に渡る「ことば」が消えてしまう。水面とはつまり、あの世のようなところだろうか。魂が向かう先、というふうにも言いたくなる。なんらかの本質に触れている。

 

次回も内山晶太の歌をとりあげます(たぶん)。