すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

飯田有子『林檎貫通式』(BookPark:2001年)


 

「すべてを選択」「別名で保存」デジタルデータを扱うときのおなじみの文言の引用がある。しかし、「すべてを選択しますか?」と質問される場合や、「別名で保存しました」と報告される場合はあるように思うけれど、パソコンは勝手に「します」とは言ってこない。「すべてを選択します」は強いていえばユーザー側に割りふられた台詞だ。この歌には、割りふられた役割に対する過剰な無力さがある。つぎつぎにあらわれる質問をすべて受け入れて肯定するしかない。字余りが演出する性急さも相まって、がくがくと急いで肯いているような表情の歌である。
ことさら残酷な印象を受けるのは、「はい/いいえ」ではなく「すべてを選択します」とまるごと復唱していることによるのだと思う。復唱は誓いのようなものだ。大口玲子の短歌〈形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり〉が人気があるのは、人に言葉を言わせることの支配性を可視化したからだと思う。社会的な場で心にもないことを「言わせられ」る経験はおそらくだれにでもある、なんでもないことだと思うけれど、それがほんとうは内面を傷つけていることを暴くのがルーシー。読者はそれが暴かれること自体によって癒され、あるいは、歌を読むことでルーシーへの加虐に加担し、それを通じて復讐するのだと思う。
掲出歌にはそういった癒やし効果がない。言わされ、損なわれたままだ。なぜなら、わたしたちが言わされ、損なわれたままだからだ。「すべてを選択」も「別名で保存」も、言葉だけ取り出すとそれぞれ小さな語義矛盾をはらんでいる。「すべて」のなかから一部を選ぶのが「選択」なのだし、「別名」がつけられてしまうならそれは「保存」ではないのではないだろうか。パソコンの外に取りだされることで露になってしまうこうした言葉の矛盾まで一首は引き受け、つじつまを合わせるように下句では強制された棒読みの口調のままねじれた交接が描きだされる。「K」という記号の「別名」があたえられた人物の、データのすべてが入っているであろう「頭」を物のように抱える。頭だけ切り出そうとしているような猟奇性すら感じさせられる。
ところで、「K」は任意のイニシャルだと思うけれど、同歌集の機械・頭というキーワードで重なる歌〈雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ〉のあとに読むと、「K」とは「きみ」という名詞のイニシャルであり「機械」のイニシャルのようにも思える。

 

塚本邦雄に似ている、とわたしが感じるほとんど唯一の歌集が『林檎貫通式』である。感覚的にいうと憎悪で笑っているような心根が共通しているのだけど、もうすこし具体的にいうと、たとえば塚本の歌における戦争というテーマの扱われ方は飯田の歌におけるジェンダーの扱われ方に似ているし、似ているどころか飯田の歌ではジェンダーの問題はときおりはっきり戦争にたとえられている。どちらも身体を傷つけるものとして描かれ、傷ついた身体を回収するかのように断片的な身体のパーツが歌に出てくるところも共通するだろうか。『林檎貫通式』には〈純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい〉という歌があるのだけど、塚本の歌も飯田の歌も〈純粋悪夢再生機〉だと思う。悪夢をみているのでもなく、悪夢を語っているのでもなく、〈再生〉する装置。
飯田有子の歌はほとんど口語でつくられているけれど、歌集を読むとだれもが「こんな口調で喋っている人は現実にはいない」と感じるだろう。使われているのはフィクションの口語だ。短歌の「口語/文語」の仕切りは今のところ「話し言葉/書き言葉」の実際とは大きく乖離しているけれど、その乖離を隠すかのように短歌の口語文体はリアルさの追求が主流だ。現実世界をいかにうまく再現しているか、というような方向に発展してきているけれど、その発展は近代短歌的な〈私〉に前衛短歌的な〈虚〉をまとわせることで成り立っている。その方法の功罪はここには書ききれないけれど、現実世界の再現性がもともと志されていない『林檎貫通式』が〈虚〉だけで勝負している珍しい歌集であることは書き留めておきたい。〈私〉の代わりに、言葉自体についた傷を芯にして歌をつくること。それは掲出歌に引用された機械の言葉の揺らぎにもあらわれている性質でもあり、塚本邦雄との根本的な共通点でもあると思う。