内山晶太「胡麻を剝ぐ」(「現代短歌」2018年12月号)
一昨日に続けてもう一回内山晶太の歌。
打ちあがりたる海亀のなきがらの皮膚を押す夕風にしゃがみて
/「くつした」(「現代短歌」2017年12月号)
冬の昼、指にみかんを押せばまた押したくなりて押す三度押す
/「秋のこと、冬のこと」(「現代短歌」2018年3月号)
押している。一首目、修飾・被修飾の関係、その配された位置、ひらがなと漢字のバランス、音の構成、など、どこをとっても非常にオーソドックスな定型の扱いだと思う。いかにも短歌的な構成。初句から読んでいってなめらかに景が見えてくる。しかも、ただなめらかなだけでなく、実は二度の句跨りと一度の句割れを起こしている。「打ちあがり/たる」「夕/風に」と「押す・夕」である。四句で一度切れて「~て」の順接で結ばれると、「夕風」がいつまでも一首に吹きつづけているよう。結句「て」が守りきる余韻がある。その余韻のなかには「皮膚」の感触や、しゃがんだときの姿勢、身体の感じ、「海亀のなきがら」を見下ろす眼差しももちろん含まれる。二首目、「押す」という語のくりかえしや、こまかく刻まれた音によって、せわしなさというか、ころころと転がるような音の流れが生まれている。結句「押す三度押す」にはちょっと笑ってしまった。夢中で、というか、欲求のまま真顔で押している感じがある。
この2首における「押す」という行為に、内山の歌の特徴がふたつくらい、象徴的にあらわれているなと思う。ひとつは、内山は歌のなかでしばしば、いかにも〈子ども〉のような行為や眼差しを対象に向けるということ。といっても、思考や感受、世界へのスタンスが幼いとか成熟していないとかいった話ではない。内容はもちろん、文体や語彙その他をすべて含めれば、むしろ「老成」という言い方のほうが内山の歌には沿う。この「押す」にはつまり、スーパーかどこかで、鮮度やらなにやらを確かめるということではなく、ぴっちりとラップ包装された鶏肉に触れてみたくなってしまうあの感じが伴う。ただただ感触を確かめたいというあの感じ。その「ただやりたくて」を指して僕は〈子ども〉と表現している。おのずから、どうしても、そうしてしまう、なってしまう、という感じ。それを海亀とみかんに対してやっている。特に海亀に関しては、それが「なきがら」であるからなおさら、ふつうは逆にきもちわるくて触れたくない、というような意識がはたらく気もするのだが、ここでそのきもちわるさはまったく問題になっていない。押している。そのあたりの無邪気さというか、分け隔てのなさに僕は〈子ども〉ということを感じる。それからもうひとつは、体感、ということ。押すことで確かめられるのは、海亀やみかんの感触であるが、それはもちろん指や手によるもののはずで、つまり、みずからの体感を刺激する行為だ。
内山の歌は、自分の身体の感覚に対する意識が異様に高い。高い、というのは、身体の感覚への気づきがこまやか、よく気づく、ということ。「胃や腸など内臓の存在、その位置は、痛みが伴ったときにやっと意識できる」とか「人は自らの顔面を直接は見ることができない。鏡や写真によってのみである」などということはよく言われるけれど、それくらい人の身体やその感覚というのは、その本人には対象化しにくく、意識しにくいものであるはず。一昨日のこの欄で、「外部でなくて内部の描写」という話をしたけれども、そこにも通じる話。自分の〈内面〉への感度、身体そのものへの感度が異様に高い。内山の歌を読むと僕は、その歌の修辞や内容に関係なく、〈子ども〉が砂場で泥だんごを作っているような感じや、友だちといっしょに砂山を作って向こうとこちらからトンネルを掘り進み、中で相手の手をつかんで騒ぐ、わっと手を引っ込める、といったような景をイメージすることがある。砂場の「景」や、泥だんごや砂山を作るという「行為」、そのときの「心情」のほかに、そこには、砂や泥の感触、手と手が触れ合う感触が、なまなまと存在するはずである。
〈子ども〉ということと「体感」ということ。きっと〈子ども〉は、〈子ども〉であるがゆえに、〈大人〉よりもずっとゆたかで混沌とした体感を経験しているのだと思うけれど、それを言葉にして他者に示し、それを再生産するには、〈大人〉の言語感覚や語彙、修辞、〈大人〉の認識、意識がときに必要になるはずで、しかし〈子ども〉と〈大人〉であるから、そこにはきっと相容れない何かが表出し、ついにその再生産は実現されないというのが予想される事態なのだが、それを内山の歌は、やすやすとやってのける。
今日の一首。最初、くしゃみが出そうで出ないときのことを言っているのかと読んだのだが、ここにはくしゃみの「余韻」とあり、この「余韻」をくしゃみの前のむずむずとした感覚だと判断する根拠は一首のなかにおそらく無いから、やはりこれは明確に、くしゃみをした後の話として読むべき。くしゃみのあとの上顎の感覚ということになると、ほんの小さな身体部位の、わずかのあいだに湧いて消えていく感覚だろうなと思う。しかも「湧く」と「ほどける」が順を追って成されるのではなくて、「つつ」だからきっと、それはほとんど同時に感受されている。この一首を読んでから、くしゃみの後の感覚をなるべく意識するようにはしているのだけど、僕はまだここまで言語的に明確に感じたことはありません。とにかくそのような感覚があると言っている。その感覚が提示されたあとで、唐突な「中庭に鳩」である。やはり笑ってしまうのだが(今日はそこに焦点を当てないけれど、上にも挙げたように、内山の歌にはユーモアも頻出する)、体感が急に空間認識へと移行する。唐突な結句に驚く。鳩が豆鉄砲を食ったようとはまさにこれで、だから、なんだか鳩のまん丸の目玉まで見えてくる。しかも「中庭」。閉じた空間であるという点に、いかにも内山の歌という感じがある。
それにしてもなんだろう。「くしゃみの余韻」が「中庭の鳩」のようなものである、というふうにも構造上は読めるし、その可能性もうっすらと残しながら、しかし、その余韻の最中や無くなったあとに目に入ったのが「中庭に鳩」という現実的な状況であった、ととらえるのも自然である気がする。「鳩が豆鉄砲を」のびっくりする感じを読者に手渡したいのか。あるいはもうまったく関係なく、実景でもなく、そのようなイメージが湧いてしまったからそのまま「中庭に鳩」と言った、というだけとも思える。小学校の国語の教科書に載っているような、音だけで言葉を運んでいく詩のような。数え歌の感じというか。
それで僕は、そのように言いたくなってしまった、というふうに読んでおきたくなる。どういう理路や体感上の必然があるのかはまったくわからないけれど、それがイメージとして浮かんでしまったから、それがたまたま目の前にあったから、そのままそうしたくて言葉にした、ということ。「中庭に鳩」ととにかく言いたい、という感じ。「中庭に鳩」と言うことがここではいちばんおもしろい、というか。海亀のなきがらやみかんを思わず押してしまうあの感じ。どうしても押したいというあの感じ。
内山の歌は、「中庭」ということに象徴されるような、強烈な〈孤独〉をイメージさせながら、奇妙に自由だ。きわめて老成した表情としぐさで、〈子ども〉が日々を生きている。
以下すこしだけ引用。すべて「現代短歌」誌の連載から。
花火見上げたりし記憶はうなだるるときしも顔によみがえり来つ/「くつした」
独眼のだるまにほこり降り積もり帽子となれば終わる今年も/「秋のこと、冬のこと」
お漏らしのように明るいゆうがたを浴びていて少しずつ暗くなる/「夏のこと」
猫じゃらしとめどなく殖ゆそれぞれの輪郭の稀有、ほのあかり、稀有/「胡麻を剝ぐ」