ユニクロに誰にもさわれない月の模様のシャツがあってもいいね

正岡豊(ネットプリント「十月の歌」:2017年)


 

遠いものへの憧れと近いものの手触り、相反するその二つが一枚の絵のなかに描きこまれているような不思議な歌を、正岡豊の今のところ唯一の歌集である『四月の魚』では多く読むことができる。

 

中国も天国もここからはまだ遠いから船に乗らなくてはね/正岡豊
ねえ、きみを雪がつつんだその夜に国境を鯱はこえただろうか
時刻表つまれていたる十月の書店にみどりの服を着て入る

 

中国と天国、雪と国境、書店と時刻表(に詰まっている行き先)、それぞれの後者には物理的な距離というよりも、憧れにあたえられた地名のような心理的な遠さがある。それらを遠さごとふわりと包みこむような文体と、船、雪、服などが実際に身体を包むイメージがオーバーラップして一首を運ぶ。掲出歌はこの歌集からは三十年近い時間を経て発行されたネットプリントに掲載されている歌だけど、これらの歌の延長線上にあると言っていいだろう。卑近なユニクロと、遥かな月。量産のイメージのあるユニクロと、一つしかない月。モチーフとして現代的なユニクロと、古典的な月。あらゆる意味で対照的なこの二つを、軽い文体が、そしてシャツが包んでいる。
この歌には中央の部分に迷路がある。〈誰にもさわれない〉のは〈月〉なのか〈模様〉なのか〈シャツ〉なのか、そのどれで取るかでこのシャツの現実のもの度合いは微妙に変わってくるけれど、いずれの道筋も開かれたままである。また、〈月の模様〉が月面の模様を指すのか、月全体を意匠にしたパターンを指すのかもわからない。それらが絞り込めなくても、この歌では遥かなもの、触れられないものへの憧れが詠われているという印象は変わらないはずだけど、そこが変わらないからこそ、〈月の模様のシャツ〉にまつわる謎は〈誰にもさわれない〉かのように閉じ込められてしまう。歌のなかに読者がさわれない領域がつくりだされている。
簡単な言葉でできている、いわばユニクロ的な語彙と文法でできている歌である。それでもどうしても決定できない部分があることが、〈月の模様のシャツ〉そのもののように一首を渦巻いている。この歌を読むときに読者は月(的に遥かな、そして唯一のもの)への憧れを、読みとるのでも想像するのでもなく、体験させられることになるだろう。この歌はわたしにはほとんど模様にみえる。

 

ゆきたくて誰もゆけない夏の野のソーダ・ファウンテンにあるレダの靴/塚本邦雄

 

掲出歌が前衛短歌の影響直下にある、と感じるのは、歌の内容から塚本邦雄のこういった歌を連想するからだけではなく、〈誰にもさわれ/ない月の〉のぱっきりした句またがりにもよる。動詞の語幹でタメて、活用語尾がどっちに振れるのかのドラマ性をつよく出してくるところ、ついでに「ユニ(クロ)」と「月」の音の重なりを支えるように散りばめられる「i」の音の配置などには、たとえば塚本の〈革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ〉における〈凭り/かかられて〉や〈液化/してゆく〉のドラマ性や、この歌の「か」の音の配置などに重ねてみることができるかもしれない。
しかし同時に言葉を取り巻く空気がアップデートされているとも感じるのは、わかりやすくいえば現代的な固有名詞である〈ユニクロ〉から説明できることだけれど、結句の〈いいね〉のほうによりつよくあらわれていると思う。この歌の〈あってもいいね〉は、〈あってもいいね〉〈なくてもいいね〉というほとんど同義の二択の片方としてではなく、シャツの可能性を指摘して肯定する唯一の言いかたとして選択されているのではないか。これは〈この味がいいね〉以後の〈いいね〉であり、SNSの〈いいね〉ボタン以後の〈いいね〉でもある。SNSの〈いいね〉とは、そのボタンを押したときに表明できる唯一の言葉にして、唯一だからこそたくさんのニュアンスを含んだ雄弁な言葉でもある。SNS以前/以後で容量の変わった〈いいね〉という言葉の更新も反映されている〈あってもいいね〉だ。
ここには、歌に使う言葉を世の中に合わせて即時更新していこうというつよい意識があるというよりは、そもそも空気を含みやすい文体を持っている作者なのではないかと思う。とくにそれを感じるのは二人称的な歌。『四月の魚』でとくに有名な歌、

 

きみがこの世でなしとげられぬことのためやさしくもえさかる舟がある

 

に顕著なように、正岡豊の歌に出てくる「きみ」は一般的な短歌における三人称的な「きみ」よりもすっと二人称的である。二人称で書かれた小説に近い、といったらいいだろうか、読んでいると話者がわたしを透かしてわたしのずっと後ろにいる人物に呼びかけているような気分になってくる。それは歌と読者の関係の焦点がずらされるということでもあり、歌と見つめあうのではなく、歌がまとう空気に身を浸すことになる。

 

ところでいま、わたしの手元には出版が予定されているらしい正岡豊第二歌集の抄出版がある。あるイベントの会場限定で配られた資料なのでこの冊子からの引用は控えるけれど、たとえばこの冊子には「だけど正岡さん」という初句ではじまる歌がならぶ一連が掲載されていて、そこには初句のねじれた二人称性がどうにか立たせているような、痺れるように美しいセンテンスが並んでいる。この全貌をはやくみたい気持ちと、はやく読まれてほしい気持ちは来年に託します。