木の周辺部は白太と云うが中心部は赤身と云える 魚のごとし

花山周子『林立』(本阿弥書店、2018年)
※「白太」に「しらた」、「赤身」に「あかみ」とルビあり。

 


『林立』は「林立」という連作を七篇含む。2010年に「塔」誌上で連載されたという。日本における杉の植林や伐採、その経過にまつわるあれこれが、その歴史的・社会的背景を軸としながら、連作として展開する。書物や万葉歌、唱歌、ブログなどからの引用も連作を支えている。「林立 一」「林立 二」……というふうに実に素っ気ないタイトルで歌集中に並ぶのだが、その「一」「二」……は連続して配置されているのではなく、それぞれのあいだに、「林立」とはまた別の連作が挟まれて歌集一冊となっている。

 

花山周子自身も「あとがき」に「この連作でどこまで自分の予感を引き出せたのかはよくわからないが、連作を終えた翌年に起きた東日本大震災以降、日本とか国家とか時代とかが、これまで感じたことのなかったような存在感を持ち、抗えない大きな波のようにも私には感じられる。/今の私には、「林立」当時の興奮が、もう思い出せないのだが、震災の前年に自分が引き付けられていた風景には、震災以降との連続が確かにあって、少しこわいような気もしている。」と書くように、つまり花山が「予感」「連続」と言うように、連作「林立」にはどこか、震災とその後の日本社会へ太く接続するようなところがある。それはつまり、日本人が支払うべきツケというか、自分で自分の首を絞めている感じ、特に戦後あらわになった日本人の心性そのもの、に「杉」をとおして素手で触れている感触がある、ということ。

 

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』もいくつかの社会的事件、災害を扱っているが、それと『林立』を比較して思うのは、ものすごくざっくり言うと、『人の道、死ぬと町』が、それら事件や災害の客観的なルポルタージュとして読めるのに対し、『林立』はそうでなく、どんなに客観的に情報を並べていてもあくまで「花山周子」の身に起きた主観的事実のように読めるということ。『人の道、死ぬと町』が、徹底した取材と、一人称文学としての短歌形式の、眼差しの力学をはじめとした特性や、「詞書」という優れた装置によって、歌集全体に、かつての事件や災害を、迫力をもって強固に再構築していたのに対し、『林立』が見せてくれているのは「再構築」ではなく、「杉」とともにある「花山周子」自身の体感、という感じがある。『人の道、死ぬと町』において僕は、歌集内部の存在としての「斉藤斎藤」をほぼ感じずにいた気がする。歌集のプロデューサー、ディレクターとしてその外部に「斉藤斎藤」を感じることはできたが、内部にそれを感じるのは、僕の読者としての感度ではほぼ無理だった。いやもちろん、どの作品においてもその内部には、作者あるいはそれとニアリーイコールの存在などありえないのかもしれないけれど。しかし『林立』は違う。「花山周子」の「予感」「興奮」、花山の言うところの「連続」をこそ感じる。つまり、『人の道、死ぬと町』が事件や災害における「〈具体〉の圧倒的な集積」であったのに対し、『林立』が感じさせるのは「〈抽象〉の際限のない噴出」であるということ。どちらの歌集も、歌集そのものが現場となり、読者に臨場感を手渡す。歌集を読むことで読者はきっと、それが対象としている現場そのものに近づくことができる。それについての説明や観念ではなく、手触りのある現場そのもの。歌集を読むことがその現場の「体験」となる。しかし両者ではその手触りがまるでちがう。『人の道、死ぬと町』の語りにくさは、「圧倒的な集積」、つまり言ってみれば、情報量の多さにもあったように僕は思う。具体の数量が多いのだ。どこから手を付ければよいのか、情報処理の点での困難がたしかにあった。しかし『林立』が含む情報量は、それに比べてずっと少ない。ごくごく小さな範囲を語っているにすぎない。でもたいへん語りにくい。なぜかと言えば、そこに色濃く見えてくるのが、一首一首や連作、そして歌集の背後にある「花山周子」の「予感」「興奮」のほうであるからだと思う。「予感」「興奮」には実体がない。ごくごく抽象的なものだ。「花山周子」が徹底したのはきっと、〈具体〉や、その積み重ねの先におのずから湧き出る(湧き出てしまう)客観的な「想定」などではなく、眼前の〈具体〉を自分の心身に定着させていくことそのものなのではないか。そしてその結果として「予感」「連続」が表出したのであれば、それは、人の(日本人の)、〈具体〉を超えたなんらかの本質、心性の核に触れているという可能性がある。広げたり積み重ねたりするのではなく、掘り下げ(てしまっ)たからこそ見え(てしまっ)たもの。どんなことでもその根っこは通じている、というような。

 

という印象批評への検証を僕はこれからさらに時間をかけてやらなければならないし、そして実は、『人の道、死ぬと町』と『林立』のその特性は、それぞれの徹底度のゆえに、あるところで反転してしまうものでもあると思うのだが。

 

今日の一首を含む「林立 二」より、冒頭から順に数首引く。

 

ヨーロッパにスギの移植をせんとせしフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
欧州に「貧者の外套」と呼ばしめて森あり森を人は糧とし
「日本全土に生えている樹木の約四分の一は杉」の鬱積
前髪を切り揃えゆくさりさりと鋏の音を目を閉じて聞く
長野県佐久市新子田「邑書林」より今日届きたる本の褐色
バス停にあしたの白い息はいて薄荷のような空気を吸えり
木の周辺部は白太と云うが中心部は赤身と云える 魚のごとし

※「佐久市」に「さくし」、「新子田」に「あらこだ」、「邑書林」に「ゆうしょりん」、「褐色」に「かちいろ」とルビあり。

 

一連はさらに続くがここまで。特に一~三首目、そして今日の一首は、「杉」「森」「樹木」「木」に関する情報をそのまま知識として歌に定着させているように見える。ただ、おそらく注目しなければいけないのは、例えば一首目、「シーボルト」の名前の、その冗長で煩雑なような音そのものをそのまま定型にぎゅっと押し入れて定着させること自体に歌の目的があるかのようなところ、だと思う。二首目のカギカッコ内や破調も、四首目の「長野県」以下もそう。それから、こまかいところなのだが、一首目「せんとせし」やサ行の音、二首目「森あり森を」の、語や音のくりかえしにも注目したい。ここには、定型によって言葉の音を楽しむような感じ、そして、語とその音を定型へ厚塗りしていくような感じも見てとれる。つまり「杉」にまつわる知識やそれへの問題意識を、定型をとおして身にしみこませていくかのような感じが、体感として、感じられるのではないかということ。

 

なめらかに流れるようではなく、かといってゴツゴツしているのでもない、がさつに見えるようでいてどこか繊細な、独特の太さや粘りのある韻律、そして文体とその効果。

 

そして、簡単な説明になってしまうのだが、三首目の「さりさり」には、杉やその他樹木の葉を鋏で切っていくような感じも、また五首目には寒い空気の中で「薄荷のような」と示された「息」がそのまま杉の香りに通じてしまうような感じも、あるのではないかということ。四首目も、「邑書林」という出版社名とその本の話から、杉山や杉林をうっすらと想起することができる。主体が「杉」をテーマとして持ち歩き、それとともにこちらも読者として歩くからこそ、一首一首がそのつど意識させてしまうものがある。それを喩や寓意とまで言っていいのかはわからないけれど。

 

つまり僕はそういった全体を、主体がその心身に「杉」というテーマをしみこませていくプロセスとその結果であるように思うのだ。知識・情報として外部にあるそれへと深く潜って生のテーマとし、それを自分の心身に定着させていく、ということ。その「テーマ」にまつわる主体の体験そのものが、定型そのものとなって、修辞そのものとなって表出している感じ。それは、今日挙げた歌からだけでは、とても説明しきれないものなのだが。歌が指示する内容だけでなく、韻律や文体も深くかかわる。今日の一首の「魚のごとし」はそのなかでは単純すぎるほどで、つまり喩として、主体の実感(この言葉はあんまり使いたくないのだけれども)として表現された「白太」「赤身」なのである。

 

そして最終的に「花山周子」の心身に、すなわち読者の心身に定着したものをとおして世界を見たとき、そこに「連続」が感じられるということ。あれは「予感」だったのだと自覚できるということ。

 

次回も花山周子の歌をとりあげます(たぶん)。