平岡直子


「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている

我妻俊樹(同人誌「率」誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』:2016年)


 

ゾンビ映画を見てゾンビについていちばん心惹かれたのは、思考しない屍になったゾンビが生前(?)の習慣を繰り返すところだった。用もなくショッピングモールに集まってくるゾンビ、エスカレーターがあると乗ってしまうゾンビ、電話をかけることはできないのに受話器をゆらゆらと頭の近くに持ちつづけるゾンビ。そこに惹かれるのは、システマチックなものへの抗いのあらわれなのだと思う。たとえば電話交換手が電話をかける場面があるとする。そこには電話をかける時間をお金に交換して生活するひとりの人間がいて、その人材が歯車として機能するひとつの企業がある。その両者の営みが「電話をかける」という一コマの上に機能的に一致する完璧さを疑いたくなり、剥がして裏を覗いてみたくなる気持ち。生活のなかの一場面を、職業なり、コミュニケーションなり、経済なり、そういった意味性から切り離したい。
それを切り離してくれるのがゾンビの姿だった。そこには目的を失って惰性でつづけられる運動がある。動いているものは動きつづけようとし、止まっているものは止まりつづけようとする。慣性の法則だ。電話をかけていたゾンビはかけつづけようとする。
言葉にもまた慣性の法則のようなものはあって、我妻俊樹の歌は電話をかけようとしつづけるゾンビに似ていると思う。なにか実用的な目的を持っていた言葉が、目的とともに目鼻を失ってしまったけれど、習慣的にその目的への身振りを再現しようとする。それはあるときは断片的な引用として表れ、あるときには口調にその形跡を残す。

 

月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる

 

美しい叙情を台無しにする覚悟で、ためしにこの歌の「元の姿」を想像してみる。

 

月報はわたしたちにとどく頃にはすりきれてぼろぼろになってる(復元例)

 

台無しになりました。でも、この歌は「生前」はきっとこういうことを言うために使われる言葉だったんじゃないかな。大事な月報のはずなのに、わたしたちにまわってくる順番が遅いからみんなの手でぼろぼろにされて読めなかった。あるいはもう少し比喩的な使い方だと、ニュースがインターネットで瞬時にとどく今日では、月報が出す情報なんてこちらにとどく頃には古びている、とか。
この歌が伝わりづらい社会詠だと言いたいわけでも、まして作者の意図を当て推量で種明かししたいわけでもなく、この復元例は歌に残されている口調から妄想できる言葉の前身の可能性のひとつだ。窓から細く差し込む月光はたしかに泥棒のようにひそやかであるということ、光すら擦り切れるほどに遠い月への距離のこと、そういう詩的なイメージを重ね合わせることに気を取られ、その詩情が歌の主題であるかのようにほとんど錯覚しながら、頭のどこかでは読めないままぼろぼろになったあの月報のことを、そんなことはどこにも書かれていないのにかすかに思いだしてしまう。
歌はわたしたちにとどく頃にはすりきれて別のものになってる。象徴的な一首だとも思う。

 

「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている

 

この歌とセットで我妻俊樹の名前を記憶している読者は多いかもしれない。初出は「短歌ヴァーサス」十号、二〇〇五年の第四回歌葉新人賞の候補作になった「水の泡たち」という連作に収められていた歌で、連作が受賞を逃したのちもこの一首はくりかえし引用され、言及されてきた。ところでこの「水の泡たち」というタイトルもまた、水を擬人化したようなかわいくて危うい詩情を感じさせるけれど、努力が無駄になることなどを意味する慣用句としての「水の泡」を前身にしているといえるだろう。
さて、この歌は代表歌候補にふさわしく作者のさまざまな特徴が詰めあわされているけれど、ここで注目したいのは言葉のゾンビ化のプロセスがあらわれている点。まず考えたいのは、この歌はなぜ

 

「先生、吉田君が風船です。椅子の背中にむすばれている」

 

という形にはなっていないのか、ということである。この歌が吉田君に起きた異変についての報告であるのなら、一首すべてが「」のなかに台詞として入っていてもいいはずなのに。あるいは仮に「先生~」と呼びかけている発話者が作中主体であるなら、「」自体が不要だったかもしれない。
この歌はそういった構造にはなっておらず、上の句は台詞として、下の句は言わば「地の文」として差し出されている。そして、それがこの歌の生命線なのだと思う。なぜなら、読者は台詞は疑うけれど、地の文は基本的には無条件に受け入れるものだから。これはおもに小説が読者と結んでいる約束だけど、短歌であっても地の文があるかぎりはその約束は適応されるだろう。つまり、上句と下句の段差によって一首に「仮の客観性」のようなものが付され、そのことが読者に上句の裏側を穿たせない。「吉田君が風船のようにふわふわと心あらずで授業を聞いていないのでいけないと思います」というような内容の言い換え=現役の言葉としてではなく、文字通りに風船に変わってしまったのだと飲みこませること。それが地の文の力であり、この歌で行われている言葉を殺す手続きだと思う。「先生、〇〇君が△△です」という台詞もまた聞き覚えがある響きだ。あの告げ口フレーズが本来の文脈から切り離されて自立してしまったのがこの歌だと思う。
上句は比喩ではないのだと下句が口添えしているなら、下句の「背中」も喩的に取らないことを上句が要求するだろう。背中があるからにはこの椅子は生き物なのだ。あるいは生き物だったのだ。吉田君だった風船、誰かだったかもしれない椅子、構造と内容が二重に人間の痕跡を指している歌である。
四音、六音、六音と、短歌の韻律とはなじまない偶数の音数の句のたたみかけによって際立たせられる上句の異物感、その裏側を縫っていくS音、短歌の「顔」と風船という「顔」、この歌からの連想で書きたいことはまだまだあるけれど、いくら紙幅という概念のない場所でも限度はあるので、そろそろ引き下がりながらもう何首かだけ歌を挙げておきたい。

 

スピードを百まで上げてねむるのよ世話する光とされる光
ヘッドフォンで殴りかかってきたくせに友達なのかキスしてくれ
らくがきを消された痕が月にある 心電図ありがとう大事にする
言うとおりにしたのに動物もポルシェも来ないね明けない夜はないね
あの頃は裏から光る看板のようにブログに嘘を書いたよ

 

なんだか無力で、なんだか勇敢で、なんだか忘れっぽくて、なんだか常にとても一生懸命だ。荒涼としているのに底抜けに明るい。こんなにひどい目に遭ったのだから、次の瞬間にはすばらしいことが起こるはずだ、と信じて待ち構えているようにみえる。
そう信じられるのは忘れっぽいからだ。今までもひどい目にばかり遭ってきて、すばらしいことなんかいちども起こらなかった、という経験に学ばないからだ。〈吉田君〉の歌が小学校っぽい場所を舞台にしていることに、あるいは風船という「空っぽの頭」があてがわれているいることに象徴的なように、我妻の歌はだいたい小学生くらい、あるいはそれ以下のIQを想定して作られていると思う。歌がぜんぜん賢くなく、すぐに忘れ、ときにはぽかんとした痴呆めいた表情すらみせる。その忘れっぽさが言葉をゾンビにさせるのだと思う。記憶力がいい歌の上には過去の経験もすぐに呼び出されるから、言葉は生きたまま掛詞になる。我妻の歌のなかでは言葉は思考せず、反応するだけだ。そして、だれか特定の個人の感情の表出としてでなく、この世にこびりついた言葉の残響、その増幅としてなにかを言い募られるときこそその口調の切実さに胸を打たれる。
短歌は概念としてしか存在しない。だけど、文字列のなかに短歌というものを目撃したかもしれないと感じるときはある。稀にある。その感覚をもっとも抱かせてくれる歌人が我妻俊樹だと思う。