染野太朗


わが指が日本地図を指してゆくそこに友だちが生きてると思い

花山周子「二〇一七年、冬の一月」(「たべるのがおそい」vol.3、2017年)

 


 

お母さんあきちゃんのこと好き?と聞くもちろんだとも薔薇の如くに

/作品連載「季節の歌」(角川「短歌」2016年1月号)

 

この歌について何度書いたり語ったりしたかわからない。われながらしつこい。「薔薇の如くに」というベタな喩が、そのベタ・大げさを逆手に取るようにして使用され、「あきちゃん」への「好き」の気持ちをこの上なく鮮やかなものにしている。ベタさに、あえてやっているという感じがある。その構造は案外複雑で、なかなか説明しにくいのだが、まずひとつ言えるのは、演劇風でしかも地の文をはみ出して「あきちゃん」への語りかけのように挿入される「もちろんだとも」というフレーズがとても大切なのだということ。これが四句に挿入されることで、戯画化・デフォルメの舞台が作意として準備され、また、一首に臨場感が与えられ、「薔薇の如くに」の内容も明るく強調される。と同時に、ふしぎなことに、その「もちろんだとも」のデフォルメの高揚との対比で、「薔薇の如くに」はフレーズとして落ち着きも得る。演劇的な明るいセリフでありながら、地の文として、内言として、シリアスにもなる。よりいっそう真剣な「好き」になる。「あきちゃん」への「好き」(読者として、母から子への愛情、と説明してしまうと、この二者における個別の関係性が損なわれてしまう気がする)が透明度の高い幸福感に満たされたものになる。デフォルメのユーモアが、愛情の深さを、短歌の表現においてととのえている。それから、如く「に」、であるところにも注目したい。これは基本的に用言に係っていく形だ。だとするとこの場合は「好き」にかかるはず。「あきちゃん」は薔薇のようだ、という可能性を残しつつも、実は、「好き」という気持ちそのものを「薔薇のようだ」と言っていることになる。主体から「あきちゃん」への「好き」、あるいは、思い切って言えば、お互いのあいだを行き来する「好き」の全体が、薔薇のようになる。単に「あなたは薔薇のようだ」などと言うよりもよほど地に足のついた「好き」だと僕は思う。というか、薔薇の如くに、はぼんやりと一首全体に係っているようにも見える。薔薇のような「好き」が、一首を覆っている。

 

輪投げの輪投げられたように目覚めれば予告なく今日の晴れは来たれり

/作品連載「季節の歌」(角川「短歌」2016年6月号)

 

「薔薇の如くに」に限らず、花山の歌の比喩の、対象の質感の再現度の高さ(つまり、高いと思わせる何か)、鮮やかさ、楽しさにはいつも目を瞠る。すっきりとした唐突(たぶん)な目覚めと(つまりよく眠れたのではないかと思う)、そこに登場する晴れた空。「薔薇の如くに」ももちろんそうだが、「来たれり」など、〈文語〉が、花山の歌の場合、その箇所以外の規格外(に見える)の表現や発想の、手綱を握っているような場合がある。作意の舞台を用意したり、デフォルメしてユーモアをまぶしたり、静謐や重厚を与えたり。それはつまり、その箇所以外が必ずしも〈文語〉脈にとらわれていないから、〈短歌〉的表現が相対化されているから、ということであるはずだが、ここでは深追いしない。とにかく比喩の話。同じ連載回を見てみるだけでも、

 

子供のお腹のようにやわらかき春宵に吸われてゆけるわれの口笛
もろもろとさくらくずれてゆく春はポップコーンのはかなさにあり
雨やめば鳥のくちばし見ゆるごと鳥のさえずり日は射し来たり

 

というように喩の印象的な歌はいくらでも探すことができる。例えば三首目、鳥の鳴き声という具体が「鳥のくちばしが見えるようだ」という喩により表現されている(つまり「鳥」の姿そのものはおそらく見えていない)わけだが、「鳥」の具体と観念上のそれがメビウスの輪を伝うように一首に渦を巻いていて、もちろんこの鳴き声も「日」も、雨粒に反射する光とともにあって鮮やかなのだろうけれど、どこか焦点が合わず、夢ともうつつともつかないような空間として一首が仕立てられているようにも思う。くちばしと鳴き声、どちらが現実のものなのかわからなくなる感じ、というか。「見ゆるごと」、つまり「見えていない」という措辞が鳥の鳴き声さえも一瞬消してしまうのだ。

 

洗濯物引き下ろしつつ子の口に口づけしたき春のゆうぐれ

/作品連載「季節の歌」(角川「短歌」2017年6月号)

夢のように洗濯物がかわきたり白いシャツたち竿にはためく

/「二〇一七年、冬の一月」

がらんどうに冬が来ている屋上に蒲団かつぎて蒲団を干さん

/『林立』

 

友だちにざっくばらんに打ち明ける過去と未来の私の苦しみ

/作品連載「季節の歌」(角川「短歌」2016年2月号)

ともだちが捨ててゆきたるレシートを財布にしまう確定申告のため
凧みたいな友だち連れて街をゆく風吹けば高く揚がる友だち

/『林立』

 

いくつか洗濯物(蒲団)の歌、友だちの歌を挙げて、今日の一首。

 

わが指が日本地図を指してゆくそこに友だちが生きてると思い

 

自分の仲間を思い出して連帯感のようなものを見い出し自分を鼓舞している歌、「友だち」のひとりひとりを誇らしく思っている歌、とまず読んでみる。「友だち」と相手をひとまとめに一般化する言い方、そしてどこかカジュアルな言い方は、歌にされることで、一般化のぶんだけ、相手と健全に保たれた距離を読者に意識させる。しかしその、読者に、というところがポイントで、主体にとっての親しみは、「友だち」という語のそのカジュアルさによって、むしろ損なわれない。日本地図を広げる。あるいはカレンダーか何かで、そこに貼られている。ここに友だちがいる。ここにもいる。ここにもいる。そこに自分の友だちが生きている。カジュアルに、臆することなく「友だち」と呼べる相手というのは、その多寡にかかわらず、まれな存在だと思う。「相手は自分を友だちとは思っていないかもしれない」と一瞬でも疑った時点で「友だち」とは自分では呼びにくくなる。でもここでは明確に「友だち」と言っている。友だち、と呼べる存在がここにも、ここにも、ここにもいる。一首全体の言葉運び、また、特に上の句のそれぞれの措辞には、どこか真剣なトーンが感じられる。しかし、過剰な仰々しさには傾かない。「友だち」と「生きてる」のカジュアルさがそのバランスを保っている。日本列島が意識され、そのイメージが、歌のスケールを妙に大きく見せる。そのスケールをもって「友だち」が指さされていく。そのスケールをもって「友だち」は生きている。その大きな「生きてる」ということだけが意識される。それ以上のことは言っていない。踏み込んでいない。無事だろうかとか元気だろうかとも言っていない。上に僕は「連帯感」「誇らしく」などと言ったが、しかし実際は、「生きてる」と思って指さしていくだけなのだ。ただ、そのたびに、その土地に住む「友だち」の存在感が、主体のなかで増すだろう。スケールの大きな生を、「友だち」のひとりひとりが生きている。「友だち」の「生」が濃くなる。手放しで「友だち」が信頼されている感じがする。「生きてる」だけでよい。それはついに「祈り」だと思う。自分を鼓舞する行為に見えても、友だちを誇らしく思いながらの行為に見えても、つまり自分の内側へ向いている行為、思いだったとしても、それが丸ごとそのまま「友だち」へと反射していく、というような。歌の言葉によって主体(というかむしろ作者)の内部にずんと溜め込まれていく、そして結果的に外部がつよく照らされてしまう祈り。そしておそらく、自分が十分に満たされていなければ、あるいは、自分のことを本当に脇に置いておける気持ちやさりげなさがなければ、外部を照らすような祈りは成立しない。そうでなければ、誰かを疑いなく「友だち」と呼べない。そして、「日本地図を指してゆく」その本人こそが、どこの誰にとっても「友だち」となる。花山周子の歌を読むときいつも僕は「祈り」を意識させられる。そして花山のそれはたぶん「言霊」といったところにじかに通じているのだが、このへんでやめます。

 

最後にねこじゃらしの歌を引きます。

 

自転車より娘下ろせば娘の手に猫じゃらし一本握られており

/作品連載「季節の歌」(角川「短歌」2017年10月号)

こぎつねのごとき娘のおみやげのねこじゃらし嗅げば草の匂いす
子が抜き来しねこじゃらし瓶に乾きおり娘の握る手が見ゆるごと
ねこじゃらしが娘に似ると思うまでわびしきまでに娘に恋す

/「三徳ビルの箱」(角川「短歌」2018年11月号)