平岡直子


逢えばくるうこころ逢わなければくるうこころ愛に友だちはいない

雪舟えま『たんぽるぽる』(短歌研究社:2011年)


 

逢えばくるう、逢わなければくるう、わたしがその感情自体をよくしっているからと言って、この歌に共感して身を寄せているわけじゃない。歌集『たんぽるぽる』の歌たちが、〈生きづらそう〉で、ある種エキセントリックでありながらも野良猫のようにらんらんと目を光らせて生きているたくましさに救済をみているわけでもない。歌から差しだされる全幅の愛、肯定感に癒やされているわけでもない。雪舟えまの歌に感じるのは、それでもなお、つよい抑圧である。女を抑圧するもの、子どもを抑圧するもの、人間を抑圧するもの、それらが短歌定型という言葉への抑圧と共振する。わたしがある時期までの雪舟えまの歌に惹きつけられてやまない理由は、抑圧によって変形してしまったものが恥じらいなく差しだされることへの感動だ。
大幅な破調にみえる掲出歌の音数は意外にも三十二音と字余りはわずか。ただ句またがりは大胆である。五句に分割すれば、

あえばくるう・こころあわなけ・ればくるう・こころあいにと・もだちはいない

といったところだろうか。「こころあわなけ/ればくるう」「こころあいにと/もだちはいない」などは現代の口語短歌ではふつうにありえる、みかける種類の句またがりだとは思うけれど、それが一首のなかに二回というのはちょっと多いし、これらの句のはじめの「こころ」がその前の「くるう」と意味の上でつよく接着していることなども考慮すると一首のなかの句またがり性はかなり濃い。ここまで濃いと読者はおそらく五句にあわせて読むことは放棄して、

あえばくるうこころ・あわなければくるうこころ・あいにともだちはいない

のように三パートで読むのではないだろうか。各パートが動詞「逢う」の活用ではじまること(ただし三つ目のその動詞は名詞「愛」に隠されているけれど)、および各パートが三音の言葉で終わることでリズムをとりつつ、そのうしろで総音数がだいたい短歌の分量であることを感じとる、といった読みかた。
この破調を激情のあらわれのように、詠われている感情のつよさが定型を破っているように言うこともできるのかもしれないけれど、わたしが感じるのはまったく逆のことで、これはダウナーな破調だと思う。周到に取り除いたのかと思うほど五音も七音も使われていないこの歌の韻律には、歌のメロディに没入させ、高揚させる力がなく、なんだか抑揚のない格言のように響く。そのつめたいフォルムと内容の熱さが名コンビネーションなのであり、破調はこの歌の内容を助長し加速させるものではなく、押さえこむものなのだと思う。九音・十二音・十一音。この歌のかたちはこうでしかありえなかった、という確信が、こういう型がこの歌以前からあったかのような錯覚すら抱かせる。
自分にとってつよい磁力をもつ存在がいる。逢えば心を乱されるし、逢わなければ「逢っていない」というまちがった状況にいることに心が乱される。どのような距離をとっても、その存在が登場する以前の秩序は戻ってこない。そういった破滅的なよろこびへ燃えあがっていくこころの孤独が〈愛に友だちはいない〉と擬人化されて語られることで相対化され、この〈こころ〉とは〈愛〉が連れている影のようにもみえる。
この歌に、そして歌集『たんぽるぽる』にしばしばあらわれる狂気と正気の和解は、この世で短歌定型だけが斡旋することのできる種類の和解だと思う。読めばくるうこころと読まなければくるうこころを同時に抱きながら対峙する歌集。歌にも友だちはいない。
わたしの個人的五歌仙はこれで終わりです。次回からは通常営業。