平岡直子


クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ

佐クマサトシ「vignette」(Website「TOM」より)


 

ちょっと最近みたドキュメンタリー映画で取材されていたのは買春客を計七人殺害したアメリカのシリアルキラーで、彼女の自分の犯行についての供述は死刑執行の直前までころころと変わり、「正当防衛だった」と「金目当てで殺した」のあいだを行ったり来たりした。わたしはそれがどちらも真実なのだろうという印象をつよく抱いた。真相は知らない。誰も知らないだろう。
掲出歌を前に、わたしはその映画を見ていたときと同じように、これはどちらも真実なのだろう、と想像している。人の思考は「クリスマス・ソングが好きだ」「クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ」を軽々と同時に抱えることができる。短歌はそれを抱えられない。何かものすごい矛盾が起こっているかのようにみせてしまう。だから短歌を読むのはおもしろいのだともいえる。

 

ほとんどの句切れの部分にちょうどナカグロや一字空けが配置されていて、短歌を知らない人がはじめて短歌を作るときに句のあいだにいちいち字空けを入れてしまう現象などを思い出すこの作りには、七五調についての原始的な快楽を刺激される。しかし、見かけによらず定型に対して反抗的なのが掲出歌の魅力的なところで、繰り返される二つの「クリスマス・ソングが好きだ」は下句的な作りというか、ちょっと長い七・七のようなものだけど、それを合わせ鏡的な対称性のなかに収めずに片方を引き伸ばしていて、しかも一首のなかで唯一の字余りを本来の下句に発生させてそこには七・七を完成させない周到さには、短歌定型の下句の重用への反発を感じる。

 

わたしが「これはどちらも真実なのだろう」と受け取ったことも、そういった歌の作りに拠るところが大きい。矛盾した複数の内容を伝えられた場合は最新情報がより重視されるので、掲出歌の場合はあとからかぶさられる「嘘だ」のほうがメッセージとしては重く、また、字数も「嘘だ」側に多く割かれている、にも関わらず、先に書かれた「好きだ」のほうが打ち消されているようには感じられなかった。それは、「クリスマス・ソングが好きだ」の繰り返しがサビのように効いていること、四、五句目の字余りの句またがりがぶら下げる「嘘だ」の蛇足っぽさなどに理由があると思う。
「嘘だ」は「嫌いだ」ではない。クリスマスソングにべつに憎悪があるわけでもなく、「クリスチャンじゃないのに」みたいな自省をするわけでもなく、ここにある「好き」も「嘘」もかなり儚いテンションなのだと思う。儚いテンションの対象として選択された「クリスマス・ソング」は、共感性がおそらく高い、上手いモチーフであるとともに、微妙にチャラいナカグロも含めて日本人的な軽薄さを体重をかけて肯定する態度でもあり、ここにはわたしも一緒に体重をかけたい。

 

掲出歌を含む、今という瞬間の複雑さがやたらシンプルな線で描かれているような連作「vignette」は始動したばかりの短歌についてのwebコンテンツ「TOM」から。メンバーである三人中二人が名前が変。