体調のすぐれぬ妻に付きまとい世話をしたがる息子を叱る

松村正直『風のおとうと』(六花書林、2017年)

 


 

『風のおとうと』から一首鑑賞を書こうと思って読み返していたら、迷ってしまってまったく一首が決まらない。僕があえて鑑賞したり解説したりしなければならないようなものはどの一首にもないように思え、かといってそれぞれの歌が内容やレトリックにおいて平板かというとそれはまったくちがう。ものごとに対しての思考や感受の仕方は明らかに独特なのだが、どのへんが独特なのかと深入りしようとすれば、「独特」とまで言うのは言い過ぎのような気もしてくる。鑑賞者として余計なことを言うと歌そのものの肝心な部分を大きく損ねてしまうようで黙りたくなる。

 

にもかかわらず取り上げるわけですが、今日の一首、じっとここに立ち止まって想像していれば「ああ、そういうこともあるだろうな」と納得できないこともない。付きまとうようにして世話をするのであれば、かえって相手の負担になることもあるだろうから、余計なことをするなと言ってそれを叱る、注意するというのもまったく不自然なことではない。なのに一読したときには、最後の最後に「叱る」とあって驚いた。え、叱らないであげてよ、と思う。お母さんが大好きで、さびしくて心配で、甘えたいような気持ちもあるからやっているわけでしょう。「妻」に付きまとってはいけない特別な事情があるからしかたなく叱っている、と読めなくもないのだが、それにしても最初に読んだとき、そのあたりの事情はまったく抜き去って「叱る」ことのみをする父親の、子どもとしての甘えをゆるさない厳しさや淡々とそれを遂行する感じが、やけに目立って見えた。でも、あまりに即物的な感じで叱っているものだから、僕はちょっと笑ってしまった。

 

僕のなかに「世話をしたがる息子は褒められるべきもの」というつよい先入観があるからこそ、驚いたり笑ったりしてしまうのかもしれない。助詞助動詞や活用語尾の工夫、その他のレトリックによる飾り立てが目立たず、また、「叱ってしまう」とか「叱りたくないのに」とか「叱りたくて」とかいったような心情・主観的なニュアンスをまじえずに現象のみを述べてくる歌だからこそ、一首が回り道をせず、僕に向けられた鏡のようになって、僕の先入観を刺激してきたのかもしれないな、と思う。その現象をどう判断するかが僕という読者に任せられているからこそ、なのかもしれない。

 

「飾り立てが目立たない」と言ったが、そのように見えるだけで、実はこの歌、「体調のすぐれぬ妻」→「世話をしたがる息子」→(それを〈わたし〉が)「叱る」という情報提示の順番は、「叱る」を最後に導いて効果的だし、「付きまとい」という一語によって、「息子」のさびしさや甘えまで想像できるわけだから、そう単純なものでもなさそうだけれど。

 

……と、一首にとどまって考えれば考えるほど、「あれ、驚くのも笑うのもまちがっているのかな」と不安になってくるわけです。

 

残業の妻を待たずに子とふたり食事をすれば叱るがごとし

 

『風のおとうと』にはこのような歌もある。「ごとし」だけれども、実際叱っているように見えてくる。「待たない」ということに対するうしろめたさが結果的にわるい雰囲気になって叱るような感じに見せている、と読めなくもない。あるいは〈母親がその場にいないときの父と子〉なる関係の微妙な空気を読み取ればよいのかもしれない。