まだきみに何か期待をよせていて崖の間際の街くずれそう

橋爪志保「崖の街」(「鴨川短歌」2017年)


 

丈夫な壊れもの。わたしが橋爪志保の歌に対して抱く印象はこれ。掲出歌の引用元である同人誌「鴨川短歌」に掲載されている作品の大半や、最近の京大短歌会員、卒業生の作品について、ある種の健康さを美質として感じることは多く、みんな朝ごはんちゃんと食べてそうだな、と思うのだけど、なかでも橋爪志保の歌は朝ごはんちゃんと食べてるどころか、朝ごはんのお皿を投げつけても大丈夫そう。

 

掲出歌にまず驚くのは「崖の間際の街」が崖上にあるのか崖下にあるのかを定めきれない状態で手渡す度胸に対してだ。「崖の間際」というとどちらかというと街は崖下にある印象になるけれど、「くずれそう」からは、崖上ぎりぎりから雪崩れ落ちそうな街をイメージする。作者のなかではそのどちらなのかについて明確なイメージがあるのだろうということは、歌の表情からも、連作タイトルである「崖の街」からもなんとなく窺えるけれど、その景を正確に伝達しようということは心がけられていない。そして、それは一首の未熟さや完成度の低さではなく、その部分の正確さはそもそも重要視されていないように思える。
この歌は一見すると、上句で心情を言って、下句でそれに釣りあう景を言う、というきわめてオーソドックスな構造になっているのだけど、そのバランスで読むには「よせていて」と「くずれそう」の因果関係が目立つ。上句の不正確さ、つまり「きみ」がどういう関係性の誰で「まだ」とはどれくらいの期間が前提とされた話で「期待」とは具体的に何なのか……等をふわっとさせる(ゆえに普遍性のある心情が伝達できる)省略も短歌ではまた見慣れたものだけど、この歌ではおそらく下句もそれと同じモードで書かれていて、その一本調子が動詞の呼応を引き立たせている。その結果、この下句は、上句の心情の翳りを喩的に表現する適切な景というよりも、上句に対する反応のようにみえる。「よせていて」と書かれてしまったゆえに「期待」が物質化して崖から街を押し崩そうとしているような。こういった一首のなかの言葉同士の関係による線の太さが、冒頭の「詠われている心情は繊細だけど歌の構造が丈夫」というわたしの印象につながっているのだと思う。
この歌は「崖」もおもしろい。上句と下句、心情と景のあいだという、一首のなかでもっとも崖らしい位置に立っているところも気が利いているし、本来の性質的には真っ先に崩れそうなものなのに、うすれるかもしれないのは期待で、くずれるかもしれないのは街で、何があってもこの崖だけは残っていそうにも思える。丈夫。