ガードレールに白く汚れた手のひらを黙っておくということ罪は

坂本歩実「後頭部」(「立命短歌」第五号、2018年)

 


 

「後頭部」は12首からなる。

 

「罪」というのは「ガードレールに触れて白い塗料に汚れてしまった手のひら、その手のひらのことを誰にも(あるいは特定の誰かに)言わないでおく」ということなのだ、と言っている。「罪」とはいったいどういうものなのか、それを説明している。

 

短歌を読むときはだいたい〈五七五七七〉の三句めの五音のあとにわり長めの休符が感じられるものだし、「手のひらを黙っておく」はなかなか省略の利いたフレーズで、「手のひら(のこと)を黙っておく」といったふうに補う必要がある、つまり、「手のひらを」と「黙る」は意味のかかわりにおいてやや距離があるし、また、休符の感じられるこの位置だと古語の接続助詞・間投助詞「を」が意識されなくもない(実際にはその可能性はほぼないけれど。そのあたりの文法的な説明は省略します)。だから、「~手のひらを」までの上の句とそれよりあとの下の句には、内容的にちょっと断絶があるとも考えられて、その場合、上に記したような読み方だけではたぶん不十分なのだが、ややこしくなるので今日はそこまで手を広げない。いや、語の構成や内容の可能性をああだこうだと探って、そのそれぞれを重ねつつ読むのが、この歌にはいちばんふさわしい気もするけれども。

 

しかしこの歌、そもそもわりとわかりにくい歌だとは思う。手のひらが、本来なら人を守ってくれる「ガードレール」によって汚れていたり、ポジティブな意味合いを喚起してもよいはずの「白」という色で汚れていたり、その「汚れ」そのものが罪の比喩なのではなくそれを「黙っておくということ」=「罪」と言っていたり(黙ることが罪の行為なのではなくて、罪の「状態」を「黙る」で喩えている…?)、なかなか複雑なのだ。……例えば「身を守る、つまり保身によってきれいに守られるものもあるけれど、それは一方で何かを汚しているのだ」といったことは読めないわけではないけれども。

 

この一首を読むと、なんとなく雰囲気のみで、「罪ってそういうものかも」などといって共感的に理解しそうになるけれど、よくよく読んでみると、そういう理解にはちょっと慎重になる。

 

でもなんだかこの歌に惹かれる。

 

汚れたのが「手のひら」であるということについては、すこし深読みして考えをめぐらせることができるかもしれない。
汚れているのが「手のひら」だからこそ、その汚れによってまた他の誰かを汚してしまう可能性がある。手は、さまざまなかたちで誰か(何か)に〈触れる〉ことができるものだから。
しかもそれは白いだけでなく、おそらく、ガードレールによって付くような薄い汚れだから、別の誰かに触れたとしても、それが気づかれない可能性だってある。

 

それを黙っている。

 

「罪」を、それそのものの質・価値によって認めるのではなく、人とのかかわりにおいて生じるものとしてとらえている、あるいは、何か問題を抱えていたとして、それそのものに対する絶対的な価値判断ではなく、それを「どう扱うか」という点において「罪」を意識しているということだけは確かである気がする。

 

ついに明かされることのない手のひらの「汚れ」の具体的内容と語の構成がさまざまな読みを引き寄せつつも、「黙っておくということ」=「罪」とするその思考・感受においては曖昧さが感じられない。そういうこの歌のあり方そのものが、「罪」というものをめぐる思考をやたらに促してくる。