茸、セロリ、豆腐など手に持つわれがわづかに冷ます白日の都市

横山未来子『水をひらく手』(短歌研究社:2003年)


 

まず思うのは、何を作るつもりなのかさっぱりわからないということ。じゃがいも、しらたき、豆腐ならわかる。茸、トマト、牛肉とかでもわかる。茸とセロリと豆腐……?
一見ナンセンスな組み合わせの三つの名詞を並べる歌、たとえば水原紫苑の〈宥(ゆる)されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら〉と見比べると、水原の歌に並ぶ名詞はグループ化されることで共通点(無機物、硬質な音が鳴る、透明感)などが可視化されて詩的な磁場を形成しているけれど、掲出歌の名詞は逆にもともとグループ内にあるものをアンバランスに引っ張り出すことでグループが崩されているような気がする。
下句で言っている「都市を冷ます」というのはとても細かい感覚で、冷蔵品を手にとることで自分の身体が少し冷え、それが自分の属する都市の温度も少し下げることになる、ということではないかと思うけれど、その細かさゆえに意識させられる自らの影響力の大きさへの確信が、「われ」と「都市」のスケール感を逆転させる。この歌の「われ」は大きい。または「都市」が小さい。
その感覚を支えるのが上句の奇妙な組み合わせの食材たちで、茸の家っぽさ、セロリの街路樹っぽさ、豆腐のビルっぽさによってこの「手」にミニチュアの街の模型が作られている、とまで読むのはちょっと読みすぎかもしれないけれど、都市との接点として拡大されているこれらの食材に対して「われ」が持つ支配力が、そのまま都市へも及ぶかのように錯覚させる作りにはなっていると思う。
そう読んでいくと、この三つの名詞はやはり本来のグループから離れた側面を強調されている。これらは食材ではなく、都市の一角で間接的に都市を構成する細部であり、模型的なもの、いわば都市の要約の部品でもある。夕飯のメニューを心配する必要はなさそう。