鯉がいて、立ち止まったらそれらしい速さで鯉は流れて行った

土岐友浩「無関係」(「歌壇」2016年5月号)

 


 

「無関係」は12首の連作。この連作には、

 

もともとは思索の道のはずだったという水路のほとりを歩く
葉桜のかげに埋もれたこの道を歩くからには哲学の猫
鉛筆の芯をするどく尖らせて「無」と書いていた西田幾多郎
いかにして彼の思索は哲学となったのだろう青葉の陰に

 

といったような歌もあって、この「鯉」は京都の「哲学の道」に沿う「水路」(琵琶湖疏水分線)の鯉なのだろうな、とわかる。

 

歩いて移動していたら疏水に鯉が見えてきた、のだろうか。まず「鯉がいて」と、静止画のように鯉をちゃんと認識している。泳いで行った、ではなく「流れて行った」とされていることで、その泳ぎが水路の流れとともにあることがはっきりと見えてくる。「それらしい速さ」というところに「一般的に言って、鯉ってこういう感じの速度で泳ぐよね」あるいは「この水の流れの感じだとこういう泳ぎで進んでいくよね」という、記憶・イメージにあらかじめ存在した鯉の泳ぎ、というような認識が出ていると思う。それから、実際の疏水を知っていればこれが急流ではないことはすぐにわかるけれど、「鯉がいて、立ち止まったら」という言葉で示された認識と動きの連なりがそもそものんびりとしたテンポだから、ここで急流はイメージしにくい。でも一方でやはり、結句で選ばれている言葉は「流れて行った」。泳いでいるのではない。だからこそあくまでもそこに水が感じられるし、水に無理に逆らったりしない、水の流れとともにある鯉が見えてくる。鯉が水に身を任せている感じ。自然な動き。それから、「鯉がいて、」の「、」があるのとないのとでは大違いで、「あ、鯉がいる」という認識の瞬間の間(ま)や、歩みを止めたその小休止が、これによって輪郭を濃くすると思う。「歩く」ことから鯉を「見る」ことへの転換が「、」によって強調されている気がする。立ち止まっ「たら」という、本来無関係のはずの自分の動きと鯉の動きを因果関係で結ぶかのような措辞も見逃せない(「流れて行った」は自然な動きをイメージさせるから、まさか立ち止まった人間に驚いて逃げていったのではないと思う)。だからこの一首、じっと読んでいると僕には、鯉やその動きそのものより、この人物の認識や動きのほうが強く意識されてくる。自分が鯉の存在に気づいて、立ち止まって、自分の動きが消えて、だからこそ鯉の動きのほうがよく見えてきて、その動きというのはいかにも「それらしい速度」であるということがわかった、ということ。鯉と水の動きはもちろん印象的だけれど、人の気配がすごくする。

 

連作の中で読めばまず「哲学の道」「疏水」が意識されるから、こんなふうに言葉ひとつひとつを検証していくのはなんだか野暮なことのようにも思えてくるのだけれども、しかし、あっさりとした表現に見えて実は一語一語が緊密に機能し合っているのだというところを意識してこそ、この歌の描く景・動きが楽しめるんだろうなと思う。それから、連作の中でこの歌は、上に挙げた「いかにして~」の歌の直後にある。その歌とのかかわりで読むのもおもしろいかもしれない。

 

以下、とてもざっくりとした付け足しです。

 

この歌に限らず、土岐友浩の歌には、初句から結句まで独特のゆったりとしたテンポがあって、それが僕にはたいへん心地よい。落ち着いた気持ちになる。定速でリズムが刻まれる。速くなったり遅くなったりしない。というか、はじめから遅い。

 

そういう印象を抱かせる理由として、助詞助動詞のあしらい方や、副詞や句跨りの扱い方等がたぶん挙げられるのだけれど、そういう「語」そのものの扱いだけでなく、「内容」の扱い方にもその秘密があるんだろうなと思う。一首のうちで、内容の展開がめまぐるしくない。内容も定速(低速)で展開される。極端な例だけれども、次の歌。

 

豆乳とかぼちゃでつくるスパゲティかぼちゃナーラと命名された

『Bootleg』(書肆侃侃房、2015年)

 

それがそのように命名された、というのみの歌。ほぼダジャレだし、しかも、すごく笑えるというような類いのものでもないけれど、僕はこの一首がかなり好きで、よく思い出している。誰かによってそれがそう命名されるようないかにも平和な場面と雰囲気はもちろん伝わるが、内容にまつわる際立ったドラマはない。感情的な負荷をこちらにかけてもこない。「豆乳じゃなくて牛乳やら生クリームやらでもかぼちゃナーラにならないですか?豆乳であることは無視ですか?」といったことは思うけれども、それは特にこちらの心をざらつかせるレベルのものではない(はず)。このかぼちゃナーラには悲しみが象徴的に感じられますねとかスパゲティの作り方を説明するに際して省略が利いていて巧いですねとかいうほどのものはない(いや、土岐友浩の歌は、「省略」ということに関しても巧みな技術をもつのだけれども、とりあえずこの歌に関しては、ということ)。このあたりのことと土岐の歌のリズム・テンポ感というのは、すごく関係しているんだろうなと思う。