何をしていても過ぎゆく風景に蝶番あり時折ひらく

山下泉『海の額と夜の頬』(砂子屋書房:2012年)
※文中の花山周子の歌は歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房)より


 

花山周子の〈目を閉じていつも見ていた風景に傷のごとくに蟻の這いくる〉という歌を思い出しながら掲出歌を読んだわたしはこの過ぎゆく「風景」を現実の風景であるとは取らなかった。何をしていても過ぎてゆく風景。いつも見ていた風景。こういう風景はだれでも持っているものなのかもしれない。「心象風景」と呼ぶときに想像する瞬間的で鮮やかな景色よりはもう少し曖昧な、記憶や連想が混ざったものが言葉では解読できない形式で上映されつづける種類の。歌を作るというのはそういった風景を言葉に留めようとする悪あがきのことかもしれないけれど、花山の歌で言うと「蟻」が、掲出歌では「蝶番」が風景の傷としてとらえられた瞬間に、この傷のしっぽをつかめば風景の全貌が歌の上に引きずり出せるかもしれない、という作者の意気込みがよぎっているような気がする。実際には切られたとかげのしっぽのように蟻なり蝶番なりがごろんと残るだけだけど、それでも、それらに何かの風景を記憶している気配があることは読者であるわたしにもわかる。とかげがいたことは信じられる。

 

わたしはこの「蝶番」を花山の歌の「蟻」のような風景のなかの独立したモチーフとして仮定したけれど、これはそれなりに恣意的な読みかたで、この歌の風景と蝶番はもうすこし密接な関係にある可能性もある。風景が一枚の扉のようなものに見立てられていてそこに蝶番がついているのかもしれないし、あるいは風景のなかに窓のようなものが複数あってそこで蝶番が開閉しているのかもしれない。また、結句の「ひらく」を自動詞と取るか他動詞と取るかによっても一首の印象は大きく違う。蝶番は二つのものをつよく接続する性質があるけれど、それよりも、開閉することによって平面的なものの角度を変えるという性質に注目すると、この歌のなかにはみえない蝶番がいくつもある。
みえない蝶番の開閉がみせる角度のひとつに、たとえば掲出歌は現実的な風景かもしれないという可能性があり、その場合にこの歌が描写しているのは車窓だろう。駅弁を食べていても昼寝していても車窓の風景は過ぎていき、窓やドアはときおり開くけれど、だからと言って風景に手を触れられるわけではない。この解釈もすこし角度を変えるとすぐに消えてしまうけれど、過ぎていっているのは風景ではなく自分自身のほうなのではないかという疑いを抽象的な風景のなかに持ち帰ってくる。角度によってみえかたが変わり、凝視するほどに内容が不確かになるこの一首を読むこと自体が「過ぎゆく風景」の体験のようにも思う。そして、みえない蝶番を背負っているからだろうか、蝶番だけは凝視するほどに確かさを増していく気がする。