染野 太朗


背をのばし歩かうとしてさびしいな袋のやうな身体をはこぶ

池田はるみ『正座』(青磁社、2016年)

 


 

背を伸ばして歩く、というのはたとえば、悲しいことや辛いことはあるけれどもとにかく前向きでいこう、などといったときに使われたりする表現。それで僕はこの「さびしいな」に妙に感情移入してしまった。つまり、前向きになろうとして、それがわれながらカラ元気であることが実感されてしまったということ、あるいは、そうやって気持ちをつくらなければならないような無理を、自分にさせるということ。結局、いま自分が一番問題としたいところにある悲しさや辛さなどを無視して前向きになろう、ということだと思う。それはいかにもさびしいことだ。そして実はそのさびしさというのは、自覚しにくいものだと思う。だってそもそも、そういう感情を隠蔽しようとしてするのが、背を伸ばして歩く、だから。そのさびしさを、身体の感覚とともに自覚している。

 

「さびしいな」という語によって、「カラ元気」「無理」といったような読みも可能になる。「うれしいな」だったらもちろん、ぜんぜん違う読みになる。

 

実際に歩こうとしたそのときに「袋のやうな身体」だと気づいたのだろうか。そうやって自分の感情の芯の部分を無視しようとする自分が、風に吹かれればふわふわとするような、まるで空っぽの袋のように感じられた、ととらえればよいのだろうと思う。自分の心情を無視して身体だけ「背をのば」すということをしたからこそ心と身体の乖離に気づいた、という読み方もできるかもしれない。心のありようとは無関係にただそれを包んでいるだけの身体なのだと実感した、というか。

 

さびしい「な」のニュアンスが、深刻に陥りすぎず、乾いているような、でも身に引きつけられた表現で、やはり印象に残る。

 

『正座』の前半部から、ほんのごくわずかだが、他の歌も挙げておきたい。

 

箸立てに箸が咲いてるゆふまぐれ二本をぬいてうどん食ふひと
らつきようは瓶の中にて眠るひと小さいあたまを酢につけながら
バス停の日溜まりぶうと音たててみんなみんないつてしまひぬ
私たち鞄は軽いものがいいどこに行くにもほいほい持つて
「ふるさと」を聞けばじんわり泣いてゐるたうとう来たか涙はもろい