平岡 直子


あの人が住む方(かた)より吹く風なれば風吹くだけで腫れる唇

二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社:2006年)
※()内はルビ


 

映画館の椅子で
キスを夢中でしたね
くちびるがはれるほど囁きあった
(「硝子の少年」作詞:松本隆)

 

十代のころ全盛期だったKinKi Kidsの「硝子の少年」を聞くたびに動揺したのはここ。青臭くて切ないラブソングのなかに出てくる「くちびるがはれるほど」が異常に生々しい。歌詞の改行の位置から考えて、これは倒置「(くちびるがはれるほど)キスを夢中でしたね。囁きあった」ではなく、唇が腫れるほどしたのは「囁きあい」で、人と囁きあっても唇はふつう腫れない。囁きあいはキスの比喩やキスの一部なのかもしれないけれど、それはそれでなんかすごいし、「いったいなにごとなんだ。これは大人になればわかるやつなのか」と思った。大人になったけどわからなかった。

 

掲出歌の「腫れる唇」は上記の歌詞をさらに上回る異常事態。キスもない。囁きあいもない。ただの風である。それでもこちらは直感的に「わかるな」と感じたのは、熱を出しているときの感覚をなんとなく思い出すからで、わたしは熱を出すとやたら大きくて頑丈なものとすごく柔らかいものが抽象的に接触する悪夢をみる。皮膚が過敏になっていて、小さな刺激が拡大されるんだと思う。わたしの悪夢が発熱時に一般的なものかどうかはともかく、たしか「痛風」の病名の由来は一説には「風が吹いても痛いから」だったと思うけれど、体調が悪いときに神経敏感になる感じはわりと誰にでもわかるものなのではないかと思う。
お伽話や言い伝えのように導入される「あの人が住む方」から、二音ずつ曲がり角を曲がるようにカタカタと運ばれてくる「風」はとても微弱な印象で、「腫れる唇」側からは遡行できない一度きりの通路という感じがする。そのたどたどしさや遠近感の狂いも熱を出しているときっぽい。
では、この歌は何に発熱してるのだろう。もういちど冒頭の「硝子の少年」と見比べてみたいのだけど、「くちびるがはれるほど」に驚くのは、歌詞のほかの部分に比べて文意の飛躍があるという理由もありつつ、主人公をおもに硝子や硝子製品に喩えている歌詞のなかでそこだけ粘膜が強調されることへの違和感がつよい。掲出歌の構造にも似たようなところがあって、「住む方」という言いかたによって位置として把握される「あの人」の輪郭は淡く、さらに「風」に託されることで身体性は解除される。その延長線上にとつぜん「唇」が出現することの落差は大きい。ここにあるのは、自分だけが身体を持っている、という感覚のように思う。
風は四方八方から吹くのに、ある特定の方角から吹く風を嗅ぎ分ける、またはその方角から吹いてきた風だと決めつけるほどに極端に純化された関係性のなかで自分の身体に気づいてしまった場合、身体の反応はほとんど病のように認識するしかないのではないだろうか。

 

掲出歌の引用元は歌集ではなくウェブ日記が書籍化されたもので、掲載されている短歌は二十首に満たない。少ないながら、あるいは少ないからこそ傾向ははっきりあって、「奥歯」というペンネームとの関連を読みたくなるほどに口唇にかかわるものが多く、それぞれの歌のどこかしらに神経が露出しているような部分があることが掲出歌に通じる。アルミホイルを間違えて噛んでしまったときみたいな。

 

金属を詰めた歯で聴くラジオから歌が流れる間は音痴/二階堂奥歯