死にいたる瞬間(とき)までつよくやくされし首さながらに ああ はるがくる

村木道彦『天唇』(ぐみ叢書、1974年)

※実際の引用は『現代歌人文庫 村木道彦歌集』(国文社、1979年)より

 


 

一般的に春は、生命や解放感、喜びや新しさを象徴するような季節だ。けれどもこの歌が喚起するイメージは、それとはまったく異なる。死に至る瞬間まで強い力で絞められていた首のように春が来る、という。それは、憎しみなのか快楽なのか、生きることへの苦悩なのか、なにか極端な感情と力によって最期を迎えた首だろう。あるいは、「ああ」を挟んでふたつも一字空けがあるから、「首さながらに」が係っていく言葉はその空白に省略されていて、そのように喩えられたのは春とは関係のない何か別のもの、その実体は明かされないままである、ということなのかもしれない。しかしいずれにせよ、残酷な死のイメージとともにこの春があることだけは確かだ。だから「ああ」には絶望のひびきさえ伴う。絶望の春が来てしまう。「首さながらに」が「はる」に直接係るのだとしても日本語の表現としてなかなかとらえにくいが、以上のようなことは言えると思う。

 

つよ「く」、や「く」されし、「く」び、「く」る。「く」は、「あ」や「え」のようには口をひらかない音だ。でもだからと言って「く」に、息の詰まる感じ、閉塞する感じ、といったような印象を誰でももつかと言えば、そうとは限らないだろう。「kの音のイメージとuの音のイメージはふつう○○だから……」というふうに、音の印象を一般化して語るつもりは、ここではない。しかし、上のように読み終えてからもう一度この一首を読んでいくとき、死や苦しみや絶望の〈予感〉のようなものとして「く」という息の詰まるような音が散りばめられているように、僕には思えてくる。それが、はるが「く」る、で極まる。一度そのように読むと、読むたびにこの「く」が苦しくなる。そして「はるがくる」という平仮名も、春の一般的なイメージとしてのやわらかさやあかるさを表現しているものとは、とても思えなくなる。漢字で書かれるよりも意味性が薄れ、ほとんど音だけになって描かれる「はるがくる」。何かが麻痺してしまって視界がかすむような感じを表しているようにさえ思えてくる。