染野太朗


わたしより年上の馬世におらず今年も坂道(ここ)に木漏れ日がある

東直子「青葡萄」(「早稲田文学増刊 女性号」)
※( )内は「坂道」のルビ

 


 

馬の寿命、というのを調べてみると、ものによっていろいろな言い方がされているのだけれども、だいたい「20~30才」といったところのようです。

 

「自分はその年齢を超えているから、自分より年上の馬はこの世にいないのだ」と気づいた、それがしみじみと感じられた、というのが上の句の内容だとして、ではそのように思ったことと下の句とはどのように関係するのか。

 

今年「も」木漏れ日が、と言っている。毎年決まった時期にしか見ることのできない木漏れ日なのか、あるいは、「わたし」が毎年ある日ある時期にだけ行き来する坂道があるのか。「わたし」にとって特に木漏れ日が印象的に感じられる季節があるのか。そしてわざわざその坂道を「ここ」と示しているのだから、自分が今まさにのぼりながら(くだりながら)、馬のことを思っているのだろう。それで、「この坂道を行くことは、馬にとってはどういう気分なのだろう、馬ならばどういう体感を得るのだろう」というふうに思っているのではないかと僕は想像した。馬と人間ではそもそも種族が違うのだから、気分や体感なんて共有できるはずはないのに、読みようによってはこの歌、「自分のこの年齢での今の気分・体感を共有できる馬はいないんだなあ」「自分だけが感じているものなんだなあ」とすこしの孤独にひたっているとも読めそうである。馬への心寄せのようなものがつよい。

 

……と、なんとかこの「わたし」の心情に迫ろうとするのだが、そしてさらに深追いすれば、さまざまな物語(この一首を違和感なく位置付けることのできる、歌の外側の文脈)をこの歌から導き出せそうなのだが、どんなに言葉に沿って読んでいっても、どの心情も物語も、僕の個人的な感想の枠を出そうもない。

 

にもかかわらず、この歌が僕にとってこれだけ魅力的なのは、心情や物語の具体はともかく、その心情や物語を思わせるさまざまな種類の「時間」、あるいは「時空」を、たっぷりと含むからなのだろう。

 

馬の寿命という、異種なるものの時間に思いを馳せること。自分はもうその「馬」なるものと同じ年齢にはなりようがないということ。それはつまり、年齢として重ねられていったとりかえしようのない過去が自分にはあるのだということや、時間は何を待つこともなくただ直線的に流れていくのだということを、「わたし」に実感させたかもしれない。「今年も」と「坂道」が負うものも大きい。今年「も」と言われたらやはり今年以外の時間が想像されるし、くりかえされる季節も意識される。その上で「坂道(ここ)」と言われれば、それは現在の一点であるから、坂道をのぼることが未来(過去)へ行くこと、くだることが過去(未来)へ行くこと、といった解釈さえしてしまいたくなる。

 

さらに、「世におらず」という言い方は、〈この世〉とは別の時空をも意識させる。そもそも実体としての馬が「わたし」の視野に今いるのかどうか、わからない。

 

このように想像・解釈を広げながら、最終的に僕が読み取ったのは、まったくの異種同士として幻の馬とともに、「木漏れ日」の光を受けながら、現在あるいは過去へ向けて歩む「わたし」の姿であった。ずいぶんと勝手な想像である。だってこの「わたし」は、馬なるものとの断絶をむしろ意識し、今この坂道に射す木漏れ日を、「ある」といって見ているだけなのだから。そんな想像は本来、真逆のものだ。

 

馬という異種。その馬の時間と人間の時間。過去-現在-未来という直線的な時間と、循環する時間。この世とは違うところにある時空。それらを意識した上での、馬への心寄せ。シンプルな構造の歌が、多様な時間と、現実と空想とを、同時にたっぷりと含んでいる。だから、〈今ここ〉のものとして描かれた坂道と木漏れ日が、その存在感をつよく保ちながら、しかも同時に、歌の背景としてうしろに退きもする。不思議な奥行きのある歌だな、と思う。