平岡直子


小松菜が値引きをされて横たわるかたわら過ぎてふと立ち戻る

沖ななも『日和』(北冬舎:2016年)


 

「(直後に体言が置かれた場合の)動詞の終止形と連体形の区別がつかない問題」の影響は、その区別がつかなくてもわりと大丈夫そうな掲出歌にとっても意外と大きい。三句目は「横たわる。」なのか、「横たわるかたわら」なのか。ここは終止形でも連体形でも歌の内容は変わらない、つまりどっちでもいいしどっちかわからなくても問題はないんだけど、一首に主語を補うとしたらどこなのか、という位置が変わってくる。

 

小松菜が値引きをされて横たわる。私はそのかたわらを過ぎてふと立ち戻る。
私は、小松菜が値引きをされて横たわるかたわらを過ぎてふと立ち戻る。

 

前者のほうが静的な小松菜/動的な私の対比がつよくなるのは誤差の範囲内として、問題は「私は」の位置だ。どこかに入ることは確かなんだけど、その位置が確定できない。それによって掲出歌では主語の支配力が分散されて弱くなっていると思う。そこに「横たわる」の軽い擬人化が拍車をかけて、下句の「かたわら過ぎてふと立ち戻る」には小松菜目線を少しだけ感じる。過ぎて戻ってきたものを定点から見ているような。
下句をまさか小松菜の動きだとは思わない、視点人物の動きだと取ることはできる、けれど「私は」を確実に挿入できないことで、小松菜という上句の主語をやや引きずってしまう。こういうずれは短歌が起こすおもしろい誤作動だと思う。
そして、小松菜目線=客観的にみるほうがより際立つこの下句の運動、短歌の定型における七・七の性質をそのまま可視化したようなこの部分の往復が掲出歌のメインディッシュだと思う。

 

値引きというのは立場によって意味合いが真逆に違う。売る側にとっては損だし、買う側にとっては得だけど、この歌はそのどちらにいるのか、どちらに心を寄せているのかを読もうとするとよくわからなくなる。
値引きをされる小松菜自身は厳密に「売る側」ではないけれど、価値を低く見積もられていて、しかも値引きされるということはおそらく古くてちょっと傷みかけたりするわけで、なんというか存在の可哀相さがある。上句の小松菜を主語にした言い方や軽い擬人化からは、その小松菜に対する憐憫や自己投影があるのかと思いきやさっさと通りすぎてしまうし、戻るのは「値引きされてるなら買っとこうかな」だろうとは思うけれど、結局買うのか買わないのかもわからない。
この歌はたぶん「意味」とか「象徴性」とかにはまったく興味がないんだと思う。興味があるのは「動き」に対してだ。「過ぎて戻る」という身体の動き。それは意識の動きでもあるけれど、意識の内容よりは動きがあったこと自体や、それが身体の動きと連動することをおもしろがっている感じがするし、その運動だけをみせられるような下句は実際おもしろい。振り子にずっと見入ってしまうときのような魅力がある。そう考えると値引きという現象にみているのも、数字の上下という「動き」なのかもしれないと思う。
いったいいくらくらい値引きされていたんだろう。昨日わたしがスーパーで見た小松菜は230円だった。底値は100円を少し切るくらいなので倍以上の高騰。最近の葉物野菜の値段について毎日いそがしく激怒したり絶望したり値引き品に歓喜したりその値引き品の品質に落胆したりしているわたしはとてもこんなたんたんと小松菜の値引きの話はできない。