中野昭子『草の海』(柊書房、2000年)
「野」というのはそこそこ広い範囲をあらわす言葉だし、「水たまり」でなく「たまり水」、そして「天」という大きなスケールを示す言葉もあるからか、雨が降ってできた小さい水たまりではなく、池とか湖とか(湖は、たまり水、と言うには大きすぎか)も想像してしまった。もちろん、野道のいくつかの小さなでこぼこにたまっている水、ととらえるのが適切なのだとは思う。
それが蒸発していき、水がなくなってしまう。あとに残ったでこぼこ。野の起伏、窪地。その「野」のように(あるいは、「野」が感じているように)さみしいのだと言う。
ひらがなが多用されているし、「でこぼこ」や「さみしい」といった言葉からはちょっとした幼さのようなものも感じられるから、歌の印象はやわらかい。また、わずかにユーモアも読み取れる気がする。
「天」へかえる、というのを深く読み込むならば、そこに死をイメージしてよいのかもしれない。崇高なものを失った、そこに存在していた水が野にとっていかにもかけがえのないものだった、決定的な何かを失ってしまった、といったようなことまで想像できる。そして現在の野は、その水を失い、しかも乾いている。水があったからこそ、起伏なく平らでいられたのに。水とでこぼこの野がともにあってこそ、ひとつの「水溜まり」として存在できたのに。今、野は、相棒を失って、その形状を露わにしている。かつての姿を失っている。あるいは、本来の姿を露骨にさらされてしまった、ということか。そこにあってほしいものがはるかかなた、到底手の届かないところにいってしまった。どうにも癒されない乾き。渇き。喪失感。「かえりて」という言葉からは、それがいずれ失われるということがあらかじめわかっていた、というニュアンスも汲み取れるかもしれない。
そのように「さみしい」のだという。
それにしても、野、に至るまでの説明が、なんだか冗長ではないだろうか。構成も複雑だと思う。初句から読んでいくとまず、どこかに何らかの形でたまっている水が出てきて、そう思ったらそれが蒸発してなくなってしまい、いきなり「でこぼこの野」があらわれて、だから読者として天のほうへ向いていた視線を下に向けねばならず、そしてたまり水があったときの野と今の乾いた野を比較して……と、妙に複雑な経路をたどって行ったり来たりしないと最終的な景にたどりつけない。しかもその景が結句でいきなり比喩になってしまって、さらに「さみしい」に接続する。
しかし、僕はそれこそがこの歌の魅力なのではないかと思ったのだ。ここには、今まさに感じているさみしさがどんなさみしさなのかをなんとか説明しつくそうとする人物が見えてこないだろうか。ただ漠然と「さみしい」と思うのではなく、それがどんな質のものなのかを見極め、正確に説明しようとしている、そして正確に説明しようとするあまり、すこし冗長になってしまっている、というか。
それによってなんとかそのさみしさを受け入れようとしている人物……とまで言うのは行き過ぎかもしれないが。
もやもやとした心情になんとか言葉を与えてしまいたいという気持ちなら、すごくわかる。
やわらかく、おかしみさえにじませる歌である。この「さみしい」の質も、きちんと読めばよくわかるし、なかなか身に迫るものがある。言葉の構成に対する上のような読み方は、やりすぎかもしれない。けれども、このように意識することで、歌そのものが見せるさみしさと、そのさみしさを抱えもつ人物が、ちょっとズレた位置で同時に見えてくるのではないかと思う。そうしたときに、妙なところでリアルな、手触りのある歌、という感じがするのだ。
中野昭子というと僕はまず、
・左より三つめのそれ 咲ききるをためらうごときそれを下さい
『躓く家鴨』(角川書店、1987年)
が好きで、この歌についてはいくらでもいろいろと言ってみたくなるのだが、もう何度も書いたり話したりしているので、今日は避けてみました。