人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす

石川美南『離れ島』(本阿弥書店:2011年)


 

わたしは石川美南の歌と相性が悪い。これは、そういう遠回しな言い方で暗に貶そうとしているわけではなくて、言葉通りに相性が悪いと思う。一首一首にほぼ必ず、歌舞伎でいうと見得を切るような部分があって、歌舞伎の楽しみ方がよくわからないわたしはそこで拍手ができない。なぜここで拍手をしなければいけないのだろう、と不可解に思っているうちに、続く微細な仕草や表情まで見落としてしまう。見得さえなければ楽しかったのになーと思って帰路に就くのだけど、見得のない歌舞伎なんてたぶん歌舞伎じゃないんだと思う。
自分と「合わない」歌人について、たいていの場合は「わたしにはわからなくてもこの歌のよさをわかる人はたくさんいそうだから大丈夫」と安心している(「大丈夫」というのもよくわからないけど、とにかく)のだけど、石川美南の歌についてはどうしてもそう思えないところがあってときどきとても不安になる。読者の数は多そうだけど、短歌のジャンル内で、石川美南の歌と「相性がいい」人、ほんとうに歌のよさをわかっている人はどのくらいいるのだろうか。ジャンル外からの読者が比較的多い印象もあるけれど、それらの読者にはもしかしてごくオーソドックスな短歌として読まれているのではないかと思うと余計に不安になる。この歌たちはほんとうに孤独ではないのだろうか。どうにも不安なので、いい読者とはいえないわたしの仕事ではないような気がしつつ、余計な口を開きたくなる。

 

前置き長くてすみません。掲出歌では「難儀なり」や「一本一本」の大仰さに「見得」を感じる。この歌集『離れ島』および同時刊行の『裏島』には、見得成分が薄い歌、見得を切ることに失敗している歌もそれなりにあり、個人的にいいと思う歌はそっちに多いのだけど今日はあえて帯裏の五首抄出から。そのなかでもおそらく最もよく知られている一首。
人間ではない存在が人間に紛れ込んでいるという世界観がまずあり、主人公に据えられた非・人間の不気味な行動が、睫毛のない目のコワさという具体的なイメージと共に迫ってくる。ちょっとホラー。映画「リング」で貞子の目が睫毛をぜんぶ抜いた助監督によって演じられているエピソードとか思い出す。しかし、この歌の非・人間は同時に人間でもある。「帰りきて」は、家の外、つまり社会的な場所でだけ人間であることを示していて、社会での自分と家での自分を切り分ける感覚も、社会性のあるほうの自分を「人間」とする感覚もごく一般的なものだ。睫毛を外すというのは付け睫毛を外す、化粧を落とす、というようにも読める。厳密には付け睫毛は一本一本は外さないので、両義性をやや異界側に寄せてはいるけれど、「仕事から疲れて帰ってきた社会人」のイメージ抜きにはこの歌は成立しなかったと思う。つまり、この歌で非・人間を主人公にすることができたのは、歌に宿る人間への信頼が根本的にあるからだといえる。「難儀なり」や「一本一本」の大仰さは、その部分こそが演技であることを強調しているようにも思える。
人間のふりをしている人間ではない者のふりを人間がすること。役者が劇中劇で役者の素顔を演じるようなこのややこしさと共通する性質は歌集名からも読みとれて、『裏島』『離れ島』というねじれの関係にあるような二つの島からは「本島」が想定される。島国である日本や日本語にとって本島という概念の意味は大きい。本島がなければ名乗れない「裏」や「離れ」だけが現れることから逆に感じさせられる本島の存在感の濃厚さに、短歌にとっての本島、「人間」や「私性」といった支柱への信頼と、それゆえの軽いはぐれ方を感じるのは飛躍が過ぎるだろうか。あるいは、現代の日本語から見た翻訳調の文体や旧仮名遣いの「裏」性や「離れ」性、そしてそれらがあくまで装飾的にしか働かないことによって「装飾を剥がしたあとの口語」の気配を感じてしまう文体のことも思う。短歌のふりをしている短歌ではないもののふりを短歌がしているようである。
掲出歌を人間じゃない者のふりをしたい歌だと考えると読み間違う。人間のふりをすることでほんとうに人間を表現したいのだと読むことが、今のところ石川美南の歌についてわたしの前に細く開かれている道だ。