怒るより先に悲しくなる人はうつむいて咲く花 みずいろの

松村由利子『耳ふたひら』(書肆侃侃房、2015年)

 


 

怒りという感情そのもの、怒りを抱いたときの人それぞれの反応、あるいは、その人はなぜそのようなときに怒るのか、みずからの怒りを自覚するとはどういうことなのか、怒りとは本当に「怒り」なのか、……といったことについてやたらと考えていた時期がずいぶん前に僕にはあって、怒りっておもしろいなあと今では思うのだが、なんの話かというと、僕はまずこの「怒るより先に悲しくなる人は」というとらえ方に、共感とともに立ち止まったのである。この言葉からは「悲しみというのは、怒りを経てから自覚できる場合がある」とか「怒りの奥のその本質には、悲しみがある」といった考え方が読み取れるのではないかと思う。僕もわりとそう信じていて、怒りというのは、プライドやら信仰やら(といってもそれは宗教的なものだけでなく、日常のごく些細な「信条」のようなものも含む)何やら、とにかくそういったところが傷ついてしまって、そのときの反応のひとつとしてあるのだろうな、と思っている。

 

例えば、誰かから何か厳しいことを言われたとする。それで、そういう厳しいことを言われるような自分の手落ちを自覚した、あるいは、それはすでにどこかで自覚していたけれどそんな自分を認めたくないという心情になった、とする。不意の「自覚」や「認めたくない」という葛藤は、たとえその誰かの指摘が正当で適切でやさしさに満ちていたとしても、主観的には「傷」と呼んでよいもののはずである。それまでの「自分」を変化させるような強い力が働いた結果なのだから。傷ついたわけである。自分は間違っていた。恥ずかしい。心が痛い。自分の未熟さが悲しい。

 

あるいは、いくら努力してみても伝わらない相手、相手の身勝手さや頑なさや視野の狭さ、そういったものに触れて、つらい。傷つく。悲しい。

 

……となる前に怒り出す人はいる。

 

もちろん、話はこんな単純なものではなく、他にもいろいろな場合が考えられる。

 

怒りとは何か、悲しみとは何か、そして怒りと悲しみの関係はいったいどういったものなのか、怒りや悲しみにはどういう「種類」のものがあるのか、ここで言う「傷」とはつまり何なのか等々といったことついてはもっともっと慎重に書きたいし興味もあるのだけれども、この文章は短歌の一首鑑賞なので、このへんにします。

 

怒りは、攻撃性として他者に向かうことがある。でもこの一首にあらわれた人は、怒りの奥の自分の悲しみを感じ、うつむいている。その後、怒りが湧いてきたかもしれない。そこまで言わなくたっていいじゃないか、自分の力ではどうにもならないことだったじゃないか。どうしてそんなひどいことをするんだ、人道に反するじゃないか。……というように人を責めたくなる気持ちが湧きあがったかもしれない。でもここでは、みずからの悲しみとしてそれを自覚し、かみしめている。うつむいている。

 

それを「花」ととらえている。愛すべきもの、かわいらしいもの、凛として立つもの、としてとらえているのだろうか。

 

そうやって自らの悲しみを引き受けてうつむけるような人を、僕自身が単純に「花」と呼べるかと言われれば、わからない。それだと、何かが抜け落ちてしまう気がする。その人の苦しみをやや無視しているようで、無責任な気がする。単なる観察者として距離をとった上で悲しみに暮れる人を見ている感じがして、単に「花」などととらえるのには、むしろちょっと反発したくなるかもしれない。

 

今僕は「単純に」「単なる」などと言ったが、けれども僕がこの一首を見逃せなかったのは、もちろん上の句の把握に共感をもったからというのもあるのだが、それよりも何よりも、最後の「 みずいろの」に惹かれたからなのである。それによって、上に書いたような「抜け落ちてしまう気がする」とか「反発したくなる」という気持ちにならなかったのだ。ちっとも「単純に」ではなかったのである。

 

この「 みずいろの」という一字空けに僕は、ためらいや思考の跡を読み取る。繊細な間(ま)だと思う。下の句は「うつむいて咲くみずいろの花」というふうにも言えたはずだ。でもその下の句だったら、最初から色が決まっている感じで、観察者としてごくごく客観的に見て、「花」としてそれを単純に歌に定着させている、決めつけている、という印象を僕はもってしまっただろう。悲しみとみずいろの取り合わせも、ありがちな感じに見えてしまう。

 

でもこの一首は、それをしていない。この一字空けに、何色なのかをしずかに判断する感じ、色そのものを大切にしようとする感じ、を読み取ってよいと思うのだ。「花」であることよりも、それが「みずいろ」であることをつよく意識している。だから倒置させて「みずいろの」で詠い収めている。そしてだからこそ、「花」と見立てるような、対象との距離が生きる。踏み込むのではなく、傍観するのでもなく、そこにいて「みずいろ」であることをしずかに感じ取っている。「 みずいろの」に込められた意味を、読者としてしばらく考えたくなる。それは悲しみの色である、とは単純には言えなくなる。