逆になりふたたびはじまることさえも砂時計に似た裸体を抱く

中山俊一『水銀飛行』(書肆侃侃房:2016年)


 

「さえも砂時計に似た」の「さえも」には、「裸体」がもともと「砂時計」に似ているものだという前提があるはずなのだけど、「それってもしかして女性の身体を砂時計に見立ててモノのように胴体の曲線を賛美するあの陳腐な発想に拠るのだろうか」というおそれを吹き飛ばしてしまうのが、「裸体」にとって「逆になりふたたびはじまること」がどういうことなのかがよくわからないところだ。
下句の、裸体、抱く、といった言葉は、上句が何かセクシャルな場面であることを暗示する。砂時計を省いていえば、二者間のセクシャルな場面で「逆にな」ることについて、いくつか具体的な内容は想定できるだろう。役割が逆、上下が逆、天地が逆……しかし、どれもまったく「砂時計」的じゃない。仮に人体のフォルムを砂時計に見立てているなら、それを逆にするときは人体はまっさかさまに置かなければならない。逆立ちの状態だ。逆立ちから「はじまる」何かについて(しかも「ふたたび」)、わたしの想像はちょっと及ばない。
もしかしたらこの一首はもうすこし形而上的なことを言っている歌で、「逆」とは上記のような役割や上下などを逆にすることを指しているのかもしれないし、そうすると「砂時計似」もフォルムの話ではなく、たとえば「こわれやすい」とか「数分でリセットされてしまう」といった性質を象徴するものとしてとれるかもしれない。しかし、「逆になりふたたびはじまる」と「砂時計」をいっぺんに言われると、どうしても物質的なレベルで砂時計がひっくり返る様子を思い浮かべてしまう。
どうもこの裸体はフォルムどころではなくほんとうに砂時計に似ているのではないかという気がしてしかたない。ガラスやプラスチックでできていたり、中には砂が入っていたりするのではないか。そう考えながら、掲出歌が裸体を人のものだとは限定していないことに思いあたる。砂時計だってふつう服は着てないから裸体だともいえる。そして、抱いている対象が無機物である可能性に気がつくと、セクシャルな場面を詠んでいるにしてはやけに乾燥した質感も腑に落ちる。なんだかシュールなものを抱いていることになってしまいそうだけど、掲出歌の入っている歌集では、ドラゴンが自分に名前をつけた人を次々に殺したり、少年が独楽紐のように年老いたり、シュールな魅惑を持ったファンタジーがいろいろ描かれるのだ。
この謎の裸体を抱いている誰かに聞いてみたい。「裸体」という概念に目を曇らされていませんか? それは「砂時計に似た何か」ではなく、「砂時計そのもの」だったりしませんか? だって、わたしにはそうみえる。腕のなかのひんやりとした砂時計を一定時間ごとにひっくり返しつづける、永遠性のなかに閉じこめられた奇妙で美しい営みのようにみえる。