体から恋の抜けゆく感じせり雪降り初(そ)めし窓をひらけば

栗木京子『水仙の章』(砂子屋書房、2013年)
※( )内はルビ。

 


 

雪の降り始めの窓をあけた。ひんやりとした空気が流れ込んでくる。しずけさも感じられただろうか。すがすがしい、頭がすっきりする、というような気持ちにもなったかもしれない。それを、体から恋が抜けてゆく感じがした、ととらえている。下の句の比喩として上の句がある。

 

それが好ましいものであれなんであれ、たったひとりに向けられたちょっと閉塞した感情のありよう、いつまでも続くということはほぼない強い思い、が体からするりと抜けていく。熱い恋、というとなんだか気恥ずかしいけれど、その恋の熱が抜けていくというところと、窓をあけたときのひんやりとした体感が、重ねられている。

 

それにしても「体から恋の抜けゆく感じせり」というのは思い切った表現だなあと思う。この歌を最初に読んだとき、どんな「感じ」なのかちょっとわからなかった。恋といっても、その段階にはさまざまあるし、人によってその経験やら捉え方やらはいろいろだから、この場合の「恋」がどういったものを指すのか、すぐには想像できなかったのだ。

 

だから僕は最後まで読み、雪の降り始めに窓をひらいたときの感じを思い、ひんやりとした空気を想像し、そこから逆に「体から恋の抜けゆく感じ、ってどんなことを言いたいのだろう」と考えた。むしろ上の句の比喩として下の句を読んだわけだ。そのうえでもう一度下の句を読んで、この「窓をひらけば」のときの感じをさらに想像した。先ほど「頭がすっきりする」などというふうに記したが、それは、ここで言う「恋」がどのようなものかを想像したあとの読みだ。(もしかしたら「さみしい」という感覚もうっすらとあるのかもしれないが、消えるとか失うとかではなく「抜ける」だし、雪の窓をひらいたときの感じでもあるから、それはちょっと考えにくいかなと思った。)

 

窓をひらいたときのこの「感じ」というのは、ひらいたその瞬間に得られる体感だろう。でも、上のような手続きを踏んで、すこしずつすこしずつこの一首に描かれた体感をなぞろうとするから、読者としてその体感を瞬間的に感じるのは、僕にはむずかしかった。ゆっくり、じわじわと感じ取っていった。

 

ただ、読者としてすぐにはわからないくらい直感的に把握した結果として「体から恋の抜けゆく感じ」という思い切った表現があるのだと思えば、なんだか納得してしまう。上の句と下の句を行き来し、互いに響かせながら、この「恋の感じ」と「窓をひらいたときの感じ」を徐々に明らかにしていくのは、なんだかおもしろい読みのプロセスだった。

 

同じ作者に、

 

・舟遊びのやうな恋こそしてみたし向き合ひて漕ぎどこにも着かず

 

という歌(『夏のうしろ』、短歌研究社、2003年)もある。僕はかなり好きな一首だ。今日の一首もこの歌も、現場・経験としての恋そのものを詠んだものではない。併せて読むのもたのしい。