平岡直子


高校の夢を見ており 竹内が群れからはなれわが部屋の戸に立つ

片岡聡一『海岸暗号化』(青磁社:2012年)


 

高校時代の夢をみている。夢のなかで、同級生のひとりであった「竹内」が集団からひとり離脱して、いつのまにかわたしが今いる部屋の戸口に立っている。夢と現実がどこかで混ざりあってしまったようだ。というのがたぶんこの歌が言っていることだと思うのだけど、そんなことはどうでもよくなるほどにこの歌は言っていないことが興味深い。
まず、「竹内」がなんか竹っぽい。ここはちょっと詳しく言うと、「群れ」という言い方は人間専用ではない、というか動物等の描写に使われることのほうが多いので、丁寧に「人の群れ」や「同級生の群れ」と言わないかぎり、何が群れているのかがやや宙に浮いてしまう。「竹内が群れからはなれ」からは、まずは「竹内の群れ」が念頭に置かれるけれど、竹内の群れを成す竹内の竹内性、属性や内面などはほとんどわからない。つまり、人なのかどうかもわからず、固有名詞としてのまとまりにも欠けるために「竹」「内」それぞれの漢字の単独の力がつよくなってしまうのだと思う。そして、それを裏側から支えるように竹という植物の群れっぽさがある。竹林のあの感じは「群れ」だと思う。そのあたりの理由から、おそらく人名のはずの「竹内」は、植物の「竹」のほうに引き寄せられていく。
ここでの「群れ」についての省略のように、片岡聡一の歌には、意味を伝達する上ではまったく問題のない省略がイメージを少しずつずらしていってしまうところがある。なんか変だな、とは思っても、意味はわかるのでどこが変なのかよくわからなくなるのだ。
同様の省略は初句の「高校の」にもあって、ここは「高校時代の」とか「高校の頃の」という意味なのだろうし、べつに無理のある省略ではないはずなのだけど、なんだかざっくりしている上に下句の「部屋」というモチーフにも釣られるのか、「高校」という施設や建物のほうを意識させられる。
けっきょくわたしが歌から読みとるイメージは、建物の外観と内観の対比だ。引きで眺めているような高校、高校よりずっと小さいけれど内側(竹内の「内」のほうはここで効いてくる)からは見きれるほどの大きさの自分の部屋、そしてそれらを無理なくつなぐための瞬間的な異化のようなざわざわとした竹林。そんなことぜんぜん書かれてないのに。でも、そこがおもしろいと思う。