とても長い時間をかけてお互ひの心情を知つたからには別る

外塚喬『散録』(短歌研究社、2017年)

 


 

『散録』を読んでいてこの歌に行き当たったとき、ちょっとびっくりしてしまった。「別る」があまりに唐突に思えたのだ。

 

なんだか、ほぼ自動的に別れが決まってしまったような言い方がされていると思う。「知ったからには」、つまり「知った以上は」という言葉のニュアンスや、わざわざ「とても長い時間をかけて」と言っているあたりを意識すると、そのときのナマの心情よりも、かけた「時間」や知ったという「事実」そのもののほうが、別れるという結果に大きくかかわっている感じがしてくる。心情がどうであれそういう結果になるのは当然だ、時間をかけ、心情を知れたら、別れたくても別れたくなくても別れる、と言っているような気がしてくる。融通の利かない感じがする。ドライで冷たい感じがする。あるいは、無理に納得している、我慢している感じがする。仕事上のそういう関係なのか。相手への優しさなのか。それともこの歌自体、融通が利かない、というところを提示したユーモアなのか。この歌の前後やその周囲に、この「別れ」のヒントとなるような歌は僕が読む限りでは見当たらない。

 

こういう主義というか美学というかの類いを掲げている人っているなあとか、相手との関係上それが自然というかそもそもの取り決めなのかもしれないなあとかいうふうにして理解することも、できなくはない。音や語の構成、修辞等に複雑なところは(一見すると)なく、初句から結句まで散文的に、説明的に展開されるのも、ちょっとカタい感じ、融通が利かない感じを補強していると思う。

 

深入りして考えるべきところは、この歌にはないのかもしれない。僕以外の読者なら立ち止まらないのかもしれない。ちょっと笑って読み終えればよいのかもしれない。

 

でも気になる。たとえば「とても長い時間をかけてお互ひの心情を知つたから」こそ「別れない」という選択肢もあると思うのだ。その可能性をどうしても思ってしまって、僕はこの「別る」について、違和感を拭えない。

 

……という自分に気づいて僕はちょっと怖くなってしまったのだ。人の行動とか気持ちの流れを、自分の常識内で理解しようとしている自分に気づいた、というか。この歌の言う理屈に違和感が残るからといって、それは別にこの人がおかしいということではない。この歌を読んだときの僕の想定やら理屈やらを、ちょっとはみ出しているだけ。この歌の具体的な状況を僕がうまく想像できていないだけ。……「人の気持ちはわからない」といったことをここで取り上げるなんて、なんだかとても幼いことを言っているようで、申し訳ない。でも本当にそう思った。気持ちやら行動やらには、その人それぞれの、状況ごとの理路があって、どんな場合にどんな言動や感情が生まれるか、その反応に普遍的な法則はない。それはまったくブラックボックスの中のものであるはずなのに、それが短歌なんかになったときには特に、自分の手持ちの理路や経験したことのある気持ち・感情の範囲でそれを解釈してしまおうとすることがある。そして究極、そうすることしかできない。この歌はそんな基本的なことを違和感として僕に突き付けてきた。この歌の言葉運びやこの口調でなければ、「別る」がこのように最後に置かれなければ、僕はそれを意識しなかったような気もする。