はてしなき夢魔におそはれゐるやうな一生(ひとよ)とはいへ 冷涼の秋

村木道彦『存在の夏』(2008年)

夢魔とは、夢にあらわれる悪魔のことをいうこともあるが、悪夢そのものをさすこともある。
悪夢からさめたときの気分には、なんともいえない不思議な感触がある。
ああ夢でよかった、と安心しながら、目の前の日常が妙に不安なものに思えてくるのだ。
声をあげるほど苦しめられた悪夢があっけなく去ったあと、目の前の日常がたよりないものに思えてくるのか。それとも、恐怖に敏感になった神経が、ふだん感じない、存在することの不安を感じとってしまうのか。

初秋のすこしつめたい空気は、悪夢から覚めたときの感じに、どこか通じるところがある。
昨日まではあんなに暑くて、樹樹にはまだ蝉たちがしきりに鳴いているのに、肌に感じる風、目に映る空のいろはもうすっかり秋の気色になった。
ああやっと過ごしやすい季節がきた、とほっとする一方で、うだるような暑さとうってかわった清涼な空気のなかにいることがまるで嘘のようで、存在することの不安、のようなものをかすかに感じることがある。

一首は、言葉通りに読めば、自分の人生ははてしない悪夢におそわれるような人生であるが、そんな人生にも、ようやくひんやりとすずしい季節がやってきた、という感懐を詠っている。
秋冷の空気が、人生の秋ともかさねられた、充足の一首と読むこともできる。
しかし、一首の背後には、悪夢からさめたときに感じるような、存在の不安や空虚感がはりついているように感じられてならない。
或いは、長い沈黙の時期をもつ、作者像にみちびかれた読みであろうか。

秋は豊穣の季節であり、またほろびへむかう季節でもあるが、収穫や紅葉に象徴されるそうした秋の印象とはべつの、澄んだ空虚感が一首にはある。
秋風を、色なき風、というのは、中国の五行説で、青春、朱夏、にたいして秋には白が配されていることと関係があるが、色なき風、というときの空虚感に通じるものを一首に感じるのである。
主人公がふりかえるのは一朝の夢ではない。一朝の夢のような、けれどはるかな半生である。