米川千嘉子『一葉の井戸』(2001年)
最初の歌集『夏空の櫂』(1988年)に収められた一首「春の卓君語る実験室(ラボ)の価値観とわが弟橘の神話と花と」をはじめて読んだのは、もう30年近く前のことだ。
私は農学部で化学を専攻する大学院生だったが、「実験室(ラボ)」という一語がとても新鮮だった。正式な組織名は「講座」、空間としては「研究室」、人も含めたさまざまな集合としては「教室」。私の周囲ではこれら3つが使われており、「実験室(ラボ)」はなんだかとても格好よくて、どのような学部・学科なのだろうと想像してみたりもした。いま読み返せば、少しぎくしゃくしたところもあるが、若さが組み立てた構成のありようも魅力だった。
伸びやかで、知的で。平凡な言い方だが、米川千嘉子に対する印象は、ずっと変わらない。
ユーラシアより来しもののしづけさに鯉はをりたり大砲(おほづつ)のごと
伸びやかで、知的で。大きな一首だと思う。
「ユーラシアより来しもののしづけさに」。ユーラシアは、地球の陸地面積の4割近くを占める大陸。六大陸のなかで最も大きい。ユーラシアという響きも、なんともいえない大きさを感じさせる。「しづけさに」。大きさが静けさに転じ、しかし確かに大きさを語っている。「大砲(おほづつ)のごと」。ユーラシアがゆったりとした大きさだとすれば、大砲(おほづつ)はゆったりとしたところをもちながらも、やはりシャープな大きさだろう。
ユニークな一首だ。「鯉はをりたり」という鯉のありようを、歴史的事実と現在的比喩で表現している。二つは補いながら、あるいは反発しながら鯉のありようを掴まえている。米川自身が、ユーラシアであり、大砲(おほづつ)なのだと思う。
花終へて椿は椿の沈黙へ 青い蜥蜴もひつそり隠る
亀・金魚おもひの淡きものたちを息子と飼ひて今日ふたりきり
梅の実が熱気をもちて実る夜 息子は夢に泳ぎ、走り、唸る
せつかちな少女の黄なる靴のやう落葉は駈けてわれを残せり
チョコレートバーほどの電話取り出して大男話すいたくやさしく
今朝髪にとまる光がすこし濃く鍵穴あいたやうに梅咲く
空港行きの白き電車に子とゐればもう一つ影を産みたくなりぬ
伸びやかで、知的で。そして、やさしい。